中 宮 |
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中 宮
としちん: ねこ: としちん註: |
甲子の宣
661年の斉明崩御から7年間、中大兄は即位せずに政務に当たったとされる。これを称制という。
中大兄は飛鳥に、大海人と間人は北九州の朝倉宮にあって、すでにこの時点で壬申の乱へのカウントダウンは始まっていた。
664年2月9日 天皇は大皇弟に命じ、冠位の階名を増加し変更することと、氏上、民部、家部(このかみ、かきべ、やかべ)などを設けることを告げられた。 |
新しい冠位(冠位二十六階)を制定し、氏上、民部、家部などを設けている。
これらを総称して甲子の宣(かっしのせん)という。
その内容はのちの天武朝の八色の姓に通じるものがある。
私見では、八色の姓を制定したのは天武ではなく、その息子の大津皇子なのだが、いずれにせよその原形は甲子の宣であり、甲子の宣の制定者は天智ではなく大海人だった。
「天皇は大皇弟に命じ」とあるのは一般に「天智が大海人に命じた」と解釈されているが、称制期間を通じて『書紀』は中大兄を「皇太子」と記しており、ここの「天皇」は中大兄ではありえない。
太子の即位や白雉改元のところで述べたように、新しい冠位の制定は新体制の始まりを意味する。
翌665年、間人大后が亡くなって330人が出家したとあるが、大王クラスの葬礼でなければ100人以上の出家者が出ることはありえない。のちの天武のときでさえ250人であった。
斉明の死後、大海人は斉明の娘である間人を倭王として即位させたとしか考えられないのである。
上の『書紀』の記述は「664年、大海人が間人の名のもとに甲子の宣を発し、唐もこれを祝ったが、間人は在位1年で崩御した」と読めるのだ。
中皇命の謎
万葉集に、中皇命(なかつすめらみこと)という正体不明の歌人がいる。
その正体については、間人、斉明、倭姫王(天智妃)など諸説あるが、スメラミコトとは天皇だけに用いられる呼称なので、一般には斉明が有力視されている。
ところが『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には、「斉明天皇が筑紫朝倉宮で崩御の際に、百済大寺を誰に託してきたかと先帝(舒明天皇)に尋ねられたらどうしようと嘆かれるので、近江宮御宇天皇と仲天皇はそれぞれ身を惜しまないで寺の為に努力しましょうと答えられたので、手を打って喜んで崩じられた」という記事があるという。「近江御宇天皇」は中大兄のことである。
「仲天皇」と「中皇命」はどちらもナカツスメラミコトと読めるが、同一人物ならば、斉明が自分の臨終に立ち会えるわけがないので、これは娘の間人と考えるのが妥当であろう。
中皇命 = 仲天皇 = 間人皇女
もちろん、斉明が大海人の刺客に暗殺されたとすれば、間人もその臨終には立ち会えなかったはずなので、この記述は事実ではなかっただろう。しかし、どうせフィクションなら大海人の名前もあってよさそうなものだが、それがないということは、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』が書かれた時代には、誰も大海人を斉明の息子とは考えていなかったということである。
つまりこの記述は、間人が女帝だったことと、大海人が斉明の息子でない事実を同時に伝えているのだ。
羽曳野市の野中寺にある金銅製の弥勒菩薩像は、「丙寅年」すなわち666年4月という制作年と共に「中宮天皇の病平癒を祈願して造らせた」という意味の文が刻まれている。
この「中宮天皇」にも斉明説があるが、「中宮天皇」と「仲天皇」は相通ずるものがあり、間人のことであろうと思われる。
中宮天皇 = 間人皇女
ただし、弥勒仏はキリスト教における「再臨のメシア」、すなわち未来の救世主であり、病気平癒とは関係がない。しかも666年では、間人はすでに亡くなっている。
ここで、太子の母とされている穴穂部間人皇女のことを思い出していただきたい。
法隆寺のそばにある彼女ゆかりの寺を中宮寺といい、そこには彼女がモデルと言われる如意輪観音像がある。これは弥勒菩薩だとも伝えられている。
もともと「間人」という名は、丹後半島の最北端にある間人(たいざ)という地名に由来するとされているが、おそらく渡来人ゆかりの地名であろう。これに「間人」という字が当てられている理由は不明だが、穴穂部間人皇女のところで述べたように、「はしひと」というのは「波斯人」つまりペルシア人のことである。
達頭は突厥可汗・イステミ(シルジブロス)の娘婿で、達頭自身の出身国はササン朝ペルシアだったと私は考える。
斉明はペルシアと突厥のハーフで、その娘の間人は、隔世遺伝でペルシア人そのものの顔立ちだったことがその名の由来ではないか。もしかしたら大海人が彼女のことを「はしひと」というニックネームで呼んでいたのかもしれない。
かつて上宮法王は、穴穂部と崇峻の姉・穴穂部間人皇女の面影をモデルに中宮寺の弥勒菩薩を作らせた。
上宮法王の最愛の妻が穴穂部間人皇女だったのではなかろうか。
天武も上宮法王に倣い、間人の死を悼み、弥勒菩薩を作ったのだろう。
そこには彼女の死の翌年に完成させたかのように「丙寅年」の文字を入れ、死という言葉を忌み嫌って「病気平癒のため」と刻んだのではないか。
天武は自分と間人の関係を、かつての上宮法王と穴穂部間人皇女の関係にオーバーラップさせていたのである。
穴穂部間人皇女の名前にある「間人」は、上宮法王の本当の母がペルシア人だったことを暗示していると思うが、あるいは大海人が間人皇女のニックネームの「はしひと」を、穴穂部皇女に追贈したのかもしれない。
そして、逆に間人皇女には、穴穂部皇女の「中宮」が諡(おくりな)されたのではないだろうか。
『書紀』が中宮天皇の存在を抹消しているのは、兄をさしおいて妹が即位した不都合さに加え、『書紀』における大海人はあくまでも兄の中大兄に従順な弟でなければならず、中大兄の即位を妨害するために大海人が間人を女帝として擁立した事実を隠蔽するためだったのである。
しかし『万葉集』には、「スメラミコト」という表現で、間人が女帝だった史実が伝えられていたのである。
間人の即位と崩御
唐が間人の即位を承認したのは彼女が斉明の娘だったからだが、その黒幕が大海人(蓋蘇文)だったことには気付かなかったのだろうか。
大海人にしても、唐が嫌いなのに間人を即位させるのに唐の承認を欲しがるというのは妙な話のようだが、これはあくまでもライバルの中大兄に先を越されないためである。斉明を即位させたときと事情は全く同じなのだ。
問題は、斉明即位の立役者だった高向玄理が今回はいないということである。
いったい、誰が使者の役目を務めたのか?
唐が旧百済領に置いた占領軍司令官の劉仁願は、実は半島土着の人で、その地位を唐の中央の高官たちへの贈賄によって得たと言われている。郭務悰もまた同様である。
彼らは「唐人」という立場ではあったが、半島が唐に制圧されることを本気で望んでいたわけではなく、彼らは唐から正規の報酬を受け取る一方、唐と敵対する大海人や新羅・文武王からも賄賂を受け取り、何かと便宜を計っていた。そのようにして蓄えた財力で私兵を蓄え、戦争請負人のようなことをしていたのである。
大海人は劉仁願に依頼して、間人を即位させたいという意向を、あたかも倭国の総意であるかのように唐の高宗に伝えさせたのではないか。
高宗にしても、大海人は言うに及ばず、唐が滅ぼした百済の王子である中大兄を倭王として承認するのも抵抗があり、斉明の娘の間人というのはいちばん無難な線だったはずだ。
かくして間人は唐によって承認され、664年に倭王として即位したのである。
それは『書紀』に「百済の鎮将・劉仁願は、郭務悰らを遣わし、表函と献物をたてまつった」と記されており、郭務悰が本職の「唐使人」として、間人即位の承認と祝賀を兼ねて来日したと考えられるからである。
その郭務悰らを送り出す役割を命じられたのが、久々に登場する中臣鎌足である。
『書紀』は中大兄と鎌足の絆を強調・美化している傾向があるが、鎌足は天智の後室には娘を入れていないのに対し天武の後室には娘を2人も入れているように、大海人サイドの人間だった。義慈王が唐に連行されたあと、再来倭し、大海人・間人側に付いていたのである。
しかし665年、中宮(間人)は在位わずか1年で崩御してしまう。