上宮法王 |
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上宮法王
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赤毛の太子
聖徳太子という呼び名が平安時代に考案されたものであることはよく知られている。
『書紀』では厩戸皇子だし、対外的には倭王・アメノタリシヒコ、国内では上宮法王であった。
本稿では、聖徳太子の既存のイメージにとらわれぬよう、この章のタイトルも「上宮法王」としておく。
大阪府八尾市にある大聖勝軍寺は、対守屋戦の勝利を記念し、聖徳太子によって発願建立されたと伝えられている。
蘇我・物部古戦場跡や守屋の墓があり、守屋=阿波の鎮魂寺として建てられた可能性が高い。
60年に1度しか開帳しないという植髪太子堂には、鉄矛を両手で握りしめて座っている木造の守屋像が祀られている。
小林惠子氏は、この鉄矛は突厥の遺跡から出土するものとそっくりだと指摘している。
守屋像の後ろには、これも木造で、あたかも守屋を監視するような姿の聖徳太子立像がある。
この太子像は太子自作と伝えられ、もともと太子自身の毛髪が植えられていたとされることから、植髪太子像と呼ばれている。
太子の毛は赤毛だったとも言われ、植髪太子像という発想自体、それが太子の外見における最大の特徴だったのではないか。
加古川市の鶴林寺にも、やはり植髪太子像があり、長く秘仏とされてきた(写真下)。
秘仏と言えば法隆寺夢殿の救世観音像にとどめをさすが、救世観音にしても、この植髪太子像にしても、後世の聖徳太子像とはかなり違和感がある。
植髪太子像(兵庫・鶴林寺)
聖徳太子伝暦
十世紀後半に成立した『聖徳太子伝暦』は太子に関する伝説の集大成であり、それ以後の太子伝の基本、また太子信仰の新たな出発点となっている。
さらに1007年、四天王寺で聖徳太子直筆とされる『四天王寺縁起』が発見された。
「末法の世に聖徳太子が救世主として再臨する」と説く同書は、空前の聖徳太子ブームを巻き起こしたという。
関裕二氏は、聖徳太子の正体は蘇我入鹿だったと述べている。
たしかに、天皇家に殺された入鹿は、怨霊として畏怖の対象にはなったかもしれない。
しかし、救世主として信仰の対象になったり、壱万円札の肖像になったりはしなかっただろう。
(そんな蘇我氏のイメージこそ『書紀』によって作られたものだという反論もありそうだが。)
私は、太子の死後、太子については公に語ることがタブーとされ、ようやくほとぼりがさめるまでに300年以上の年月が必要だったことを『伝暦』は物語っているのではないかと思う。
そのタブーとは「西方の救世観音菩薩」「西方から黄色の光が・・」などの伝説が暗示するように、太子が西アジアからやって来た王だったという事実である。
『伝暦』の成立には、遣唐使の廃止後、ようやく真の独立国家となった日本において、初めて独自の文化が開花しつつあったという時代背景がある。したがって『伝暦』の聖徳太子のイメージは、あくまでも純和風にアレンジされたものだと言える。
鎌倉時代、武士の間で聖徳太子信仰がますます盛んになったのは、太子が騎馬民族の王だったという伝承そのものがまだ残っていたからではないだろうか。
余談だが、究極の日本文化とも言える日本刀は、鎌倉時代の技術が最高だったという。
一子相伝のため、その最高の技術は後継者が途絶えると同時に消滅してしまったのだ。
この日本刀こそ、鉄製の刀を発明した騎馬民族の末裔だけが生み出すことができた芸術ではなかろうか。
達頭、倭王(上宮法王)になる
達頭が倭国にやって来るまでの足取りについては次章「山背」で考察し、ここでは先に、来倭後の達頭について検証してみたい。
上宮法王の即位に関係があると思われる『書紀』の記述は以下の通り。
なお、文中の「皇太子」は厩戸皇子=達頭であり、「天皇」は推古のことである。
601年2月 5月 603年10月4日 12月5日 604年1月1日 605年10月 |
皇太子は初めて宮を斑鳩に建てられた。 天皇は耳梨の行宮においでになった。 このとき大雨が降り、河の水が溢れて宮廷に満ちた。 天皇は小墾田の宮に移られた。 はじめて冠位を施行した。(冠位十二階) はじめて冠位を諸臣に賜わり、それぞれ位づけされた。 皇太子は斑鳩宮に移られた。 |
601年に「皇太子は初めて宮を斑鳩に建てられた」とあるのに、605年に再び「皇太子は斑鳩宮に移られた」とあり、この間の4年間が何だったのかについてはいまだに定説がない。
兵庫県揖保郡太子町に斑鳩寺という太子ゆかりの寺があり、このあたりの古い地名を鵤(いかるが)という。
達頭は601年に来倭し、列島における最初の本拠地を播磨に定めたのだ。
斑鳩といえば飛鳥、斑鳩寺といえば法隆寺を思い浮かべてしまうが、いずれも播磨が最初だったのである。
「イカルガ」が何語かは不明だが、「斑(まだら)」は突厥の祖神「まだらの狼」、「鳩」はゾロアスター教の神の使いを思い起こさせる。
ちなみに「アスカ」は古代朝鮮語の「安宿(アンスク)=安らかなる故郷」だという説もあるが、ここに「飛鳥」という漢字が当てられているのも、おそらく斑鳩と無関係ではないだろう。
播磨は物部氏の旧領で、製鉄が盛んな地域だった。
蘇我馬子がこの土地を接収して達頭に与えたのかもしれない。
601年5月、「天皇は耳梨の行宮においでになった」とあるが、耳梨の行宮(京都府山科か)なる場所に馬子、推古、達頭が集まり、馬子から達頭への譲位が行われ、「大雨が降り、河の水が溢れて宮廷に満ちた」という表現で、蘇我馬子王朝の終焉を表している(小林惠子説)。
603年、達頭は飛鳥の小墾田の宮に移る。推古への婿入りである。
倭国は母系社会であり、東アジアの有力者が入り婿の形で倭王として即位し、これを土着豪族がサポートしていた。推古・上宮法王・馬子に見られる三頭体制は、倭国統治の基本形だったのである。
今までのおさらいを兼ねて、表にしてみた。(赤は継体の血筋)
大 王 |
別 名 |
正 妃 |
大連・大臣 |
倭国での 即位の年 |
継 体 |
智証(新羅王) | 春日山田皇女 | 大伴金村 物部尾輿 | 526 |
安 閑 |
春日山田皇女 | 大伴金村 物部尾輿 | 534 |
|
宣 化 |
真興王(新羅王) | 春日山田皇女 | 大伴金村 物部尾輿 蘇我稲目 | 535 |
欽 明 |
聖王(百済王) | 堅塩媛 | 物部尾輿 蘇我稲目 | 540 |
敏 達 |
威徳王(百済王) | 炊屋姫(推古) | 蘇我稲目 | 572 |
蘇我馬子 |
炊屋姫 | 物部守屋 | 576 |
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用 明 |
恵(聖王の子) | 炊屋姫 | 蘇我馬子 物部守屋 | 585 |
上宮法王 |
達頭(西突厥可汗) | 炊屋姫 | 蘇我馬子 | 604 |
達頭が婿入りした年の暮れに冠位十二階が制定され、翌年の元日から施行されている。
新しい冠位の制定は、現代における新内閣の発足と同じで、新体制の始まりを意味している。
つまり、達頭の正式な即位の儀式が604年の元日に行なわれたと考えられるのだ。
翌年、飛鳥に達頭の宮殿が完成し、これも達頭にちなんで「斑鳩宮」と名付けられた。
もともと用明の上大殿(かみつおおどの)があったところで、それが上宮法王の「上宮」の由来であると言われている。
記紀は「聖典」だった
日本最古の正史は「記紀」、すなわち『古事記』と『日本書紀』である。
私は以前、聖徳太子こそ日本の建国者であり、初代天皇だったのではないかと考えていた。
『書紀』が文字通り日本の歴史であるのに対し、『古事記』は「古い事の記録」だから、まだ日本が建国される前の列島の歴史だろうと思ったからだ。
これが正しければ、『古事記』がどこで終わっているかを見れば、新しい日本がいつ始まったのかが自動的にわかるはずだ。
『古事記』は、推古朝の途中、まさに厩戸皇子が登場する直前で筆が置かれているのである。
しかし、『古事記』に厩戸皇子が出てこない理由がもうひとつあった。
歴史書であると同時に「天皇を神とする教典」である記紀が2つでセットであることは、否応なしに旧約聖書と新約聖書を思い起こさせる。
事実、『古事記』の天地創造や国生みの記述などには、明らかに旧約聖書(とくに創世記)の影響が見られる。
『書紀』は厩戸皇子の誕生をこう伝えている。
皇后(穴穂部間人皇女)が厩の戸に当たられた拍子に、難なく出産された。
これを、新約聖書のイエスの誕生の記事と比べてみよう。
・・・天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。(以下略)」
・・・ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ福音書)
厩戸皇子の誕生のエピソードは、後世は以下のように脚色され、その「イエス化」がさらに進んでいる。
穴穂部間人皇女の元旦の夢に金色に輝く僧(正体は西方の救世観音菩薩)が現れ、「われに救世の願いあり。よって胎をかりる」との託宣があった。
穴穂部間人皇女は辞退したが、「これは宿世の縁なり。これによって国本立ち、多くの民の救われることを思い、心安らけくおわすべし」と告げ、ひとすじの金色の光と化して妃の口から胎内に入った。
十カ月後、邸内を散歩し、厩戸の前に来たとき産気を覚え、その場にうずくまった。女孺(めのわらわ)たちが妃を産室へ運ぶと、玉のような皇子が生まれ、西方から黄色の光が邸内から庭先までも照らし、空高く瑞雲がたなびいた。
おそらく『書紀』の方が『古事記』よりも先に成立し、これを新約に見立てる必要上、あとから旧約に対応する『古事記』が書かれたのではないかと思う。『古事記』が厩戸皇子が出現する直前で終わっているのも、厩戸皇子=イエスと考えれば納得がいく。
そして、写本の際に『書紀』の中に『古事記』からの引用を追加するなどのアリバイ工作をして、あくまでも『古事記』の成立の方が先だったことにしているのだ。
万世一系
記紀の編纂を命じたのは天武天皇だが、そこにはクーデターで近江朝を倒した行為を正当化する目的があったことは言うまでもない。天皇家の万世一系も、藤原不比等あたりが考案したのではないかと言われている。
しかし、『書紀』には『国記』という原案が存在し、そこにはすでに万世一系のアイデアも含まれていたというのが私の考えである。
「敏達」の章で、蝦夷が『国記』を焼こうとしたという話は、それが『書紀』の原案であり、『書紀』が蘇我王朝の存在を抹消していることを暗示する演出だったのではないかと述べた。
『書紀』は、『国記』を厩戸皇子と蘇我馬子の共著だったように伝えているが、最終的には蘇我氏にとって不利な内容に書き換えられたということである。
しかし、上宮法王は馬子よりも先に死んでいるので、それは上宮法王によってなされたものではありえない。
私は、『国記』を完成させたのは、上宮法王を救世主として崇めた原始キリスト教徒・秦河勝だったと推理する。
もしかしたら、その主人公は、最初は馬子だったのかもしれない。
なにしろ「蘇我馬子」=「我は蘇り、馬小屋で生まれた子」だから。
しかし、西からやって来た救世主・上宮法王の出現によって事情が変わった。
天皇家は万世一系であるというシナリオの原型は、聖徳太子を再臨のメシヤと崇める秦河勝により、血統至上主義のダビデ王家をヒントに作られたのではないかと思う。
この作業はのちに天武によって引き継がれ、光明皇后のときにほぼ完成した。
桓武も若干の手直しをしていると考えられ、「記紀」の内容が現在の形に確定したのは平安時代だったと私は思っているが、つねに河勝の子孫たち、すなわち秦氏がそこに関わっていただろう。なにしろ長岡京も平安京も、その土地は秦氏が朝廷に献上したものだった!
イエスの弟子が新約聖書を書いたのに倣い、上宮法王の弟子となった河勝も、上宮法王を再臨のメシアとする教典を著したわけだ。
伊勢神宮の参道の石灯籠には、天皇家の菊の御紋と共に、イエスの家紋・ダビデの星が刻まれている(写真上)。
伊勢神宮に外宮と内宮があるのは、記紀と同様、それぞれ旧約と新約を意味し、豊受大神は旧約の神ヤハウエに、天照大神は新約の神キリストに対応しているのではないか。
豊受大神は、天照大神の食事の世話のために丹後から呼び寄せられた神様とされているが、もともと丹後の真名井神社では天御中主神(アメノミナカヌシ)として祀られていた神である。この神様は、『古事記』ではしっかりと、天照大神やイザナギ・イザナミをしのぐ最高神の地位にある。
「辛酉の年」と「甲寅の年」
初代天皇とされる神武の即位年について、中公新書『歴代天皇総覧』に次のようにある。
(神武の即位年は)中国の史書を模範に辛酉革命説をとる讖緯(しんい)説にもとづくものとみられる。三善清行(847〜918)以来、那珂通世(1851〜1908)に至る諸説では1元を60年、21元すなわち1260年を1蔀(ほう)として、その初年である辛酉の年に天命が革(あらた)まると考え、推古天皇の9年、すなわち601年から起算して、紀元前660年に神武天皇の即位を設定したと説明されている。
601年が単に辛酉の年だったというだけでは、革命の年としての説得力はない。
その年に、達頭が日本列島に上陸したという事実こそが重要だったのだと思う。
記紀が「日本の聖書」ならば、当然、編者には西暦の知識があったはずである。
『書紀』に登場する記念すべき最初の年は、神武が東征に向かった「甲寅の年」(紀元前667年)である。これは、神武が橿原宮に即位したとされる「辛酉の年」(紀元前660年)の7年前に当たる。
東征に要した年月を7年としているのは、神が7日間で世界を創造したとする聖書の記述に由来するのかもしれない。「神代七代」にも7の数字がある。
しかし、紀元前667年に関しては、私はどちらかと言えば「667」の方に意味があると考える。
中大兄皇子の近江遷都が西暦667年だからだ。
中大兄皇子はのちの天智天皇だが、江戸時代まで天皇家の菩提寺だった京都の泉涌寺には、天智が「初代天皇」として祀られているという。
『書紀』は、近江遷都の667年にマイナス符合を付けるという、西暦の知識のある人間にしかわからない方法で、日本国の真の建国の年を神武神話の中に埋め込んだのではないか。
戦後、GHQの要請で、日本武尊や武内宿禰や藤原鎌足らの肖像が次々と紙幣から姿を消した。
しかし日本政府は、聖徳太子は「和をもって尊しとなす」と訴えた平和主義者だったとアメリカ人を説得し、その肖像だけは守り抜いた。
高度経済成長時代も、聖徳太子は最高額紙幣の壱万円札にその姿を残し、日本経済のシンボル的存在であった。
このことは、天智と聖徳太子には血縁関係があり、604年に即位した倭王・上宮法王こそ日本の天皇家の偉大なる始祖であることが、皇室家には伝承として残されていたからだとしか私には考えられないのである。
上宮法王と仏教
聖徳太子は日本仏教の祖とされているが、これは平安時代の仏教界が仏教を権威付けるために太子を利用したもので、当時は最澄、空海、鑑真らよりも太子のブランドイメージの方が優っていたことの証明でもある。
しかし、僧侶でもなかった上宮法王が「三経義疏の著者」というだけでそこまでのブランドになったとは考えられない。
達頭は590年代、西突厥の連合国で、仏教の先進国である高句麗に身を寄せていた。
日本の仏教が現世利益を説いて民衆に広がっていくのは鎌倉時代以降で、それ以前は儒教と同様、為政者のための政治哲学のようなものだった。
6世紀は仏教が朝鮮三国、さらには蘇我氏によって倭国にも影響力を及ぼし始めていた時期であり、達頭も高句麗で帝王学として仏教を学んだのだろう。倭王となってからも、その仏教の教師として雇われていたのは、百済ではなく高句麗の僧であった。
古代日本でキリスト教が信仰されていた痕跡はほとんど残されていないように見えるが、我々が抱くキリスト教のイメージは、せいぜい古くても16世紀のフランシスコ・ザビエルの時代のもので、すでに原始キリスト教とは似ても似つかぬヨーロッパ的なものに変貌したあとのものである。
もともとエルサレムの神殿はきわめて神社に近いものであったらしいし、日本各地の祭り、あるいは地方の民謡などに、古代ヘブライを現在に伝えているものが無数に存在するという。
原始キリスト教どころか、紀元前の日本列島にはすでにユダヤ教が伝わっていたのだ。
これに関与していたのは海部氏や物部氏だったと思う。
物部氏は「旧約の民」、秦氏は「新約の民」だったというわけである。
ならば、物部氏の神社を秦氏が次々と乗っ取っていったことも説明がつく。
秦氏の氏寺である蜂岡寺も、最初は神社だったという伝承がある。蜂岡寺はのちの太秦の広隆寺である。
有名な弥勒菩薩は再臨のメシアを意味する未来仏で、もともと仏教の概念にはなかったものであるらしい。
上宮法王の死を悼み、新羅のアカマツを彫って作ったと言われるこの仏像は、日本で最初に国宝に指定された文化財の中のひとつなのだが、この弥勒菩薩だけがことさら「国宝第1号」として強調されているのは、旧壱万円札と同じような意味があるのではなかろうか。
広隆寺弥勒菩薩
軽皇子の亡命
一般に、蘇我馬子は好戦的で、聖徳太子は仏教的平和主義者だったと考えられているが、上宮法王はもと西突厥可汗の達頭だから、事実は全く逆だったはずである。秦河勝も、正式な肩書きは「軍政人」つまり軍事顧問であった。
上宮法王は、持ち前の軍人パワーを隋に対しても発揮したかったのだが、しっかりとサイフのヒモを握っている馬子の協力が得られず、逆に馬子に説得され、しぶしぶ遣隋使の派遣に同意せざるをえないありさまだった。
一方の隋も、けっして達頭を倭王になど承認したかったわけではないが、高句麗戦をひかえ、倭国に余計な手出しをさせない条件として、こちらもしぶしぶ倭王タリシヒコを承認したと思われる。
しかしその隋も、高句麗遠征に失敗し、最後は唐によって滅ぼされてしまった。
唐は、618年、隋と同じ鮮卑拓跋部の李淵・李世民父子によって建国された。皮肉にも、それまで隋と連合していた東突厥の騎馬軍団が、最終的にはこの父子に味方したらしい。
拓跋国家という点では隋も唐も同じであり、高句麗の嬰陽王は引き続き唐と敵対した。
しかし翌619年、嬰陽王が亡くなってしまう。
唐はさっそく高句麗に政治介入し、嬰陽王の腹違いの兄弟で、親唐派の栄留王を即位させた。
このとき、嬰陽王の子・太陽王が高句麗を追放され、かつて父と親密な関係にあった達頭=上宮法王を頼り、620年頃に倭国に亡命してきた。これが軽皇子である。
「軽」は「韓」で、彼が半島から来たことを意味している。(のちの文武天皇(新羅・文武王)が軽皇子と呼ばれたのも同じ理由。ちなみに乙巳の変では、古人大兄が中大兄のことを「韓人」と呼んでいる。)
上宮法王は暗殺された
梅原猛氏は、聖徳太子は怨霊であり、奈良時代の藤原氏はこれを大いに怖れて、法隆寺の方位を変えるために建て替え、太子の鎮魂のための寺に変えたと唱えた。藤原氏が太子の怨霊を怖れた原因は、のちに改姓して藤原氏の初代となった中臣鎌足が、実は太子の子・山背大兄皇子殺害の黒幕だったからというのである。
私の推理は、これとはいささか異なっている。
『書紀』は厩戸皇子と山背大兄皇子の関係については沈黙しているが、本当の親子だったらありえないことである。
第一、法隆寺に山背大兄の一族が祀られていないではないか。
山背大兄皇子
上宮法王の奥さんは、天寿国繍帳を作った橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)や、上宮法王と1日違いで亡くなった膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が有名だが、上宮法王と合葬された穴穂部間人皇女もまた、私見では上宮法王の母ではなく、妻である。
また「用明」で述べたように、菟道皇女は上宮法王の正妃である推古の別名である。
同様に、山背の母とされる刀自古郎女(とじこのいらつめ)も推古の別名だと私は思う。
推古が山背の母だとすると、彼女は崇峻5年(592年)に39歳だったと『書紀』にあり、603年に達頭が婿入りしたときには48歳だから、父親が上宮法王ではかなりの高齢出産になってしまう。
推古は敏達との間に竹田を産み、蘇我馬子と再婚してから山背を産んだと考えるのが妥当であろう。
つまり山背の父親は馬子であり、山背こそ蘇我氏の宗家だったのである(ちなみに蝦夷の母親は物部氏の女性)。
来倭後の上宮法王には子どもがなかったことから、推古は百済王の血を引く竹田皇子を、一方の馬子は自分の息子である山背を倭王に立てたいと考え、対立したと考えられる。
そこへ上宮法王が、軽皇子を皇太子に立てると言い出したのではなかろうか。
高句麗に内政干渉し、意のままに動く栄留王を即位させた唐にとって、目障りなのは百済の武王、そして倭国の達頭だった。
貿易氏族ゆえに唐とも独自のパイプを持っていた蘇我氏は、これを李世民に通報。
李世民とは626年に唐の第2代皇帝となる太宗のことであるが、彼にとって、かつて嬰陽王と共に隋を苦しめ、今その嬰陽王の子を庇護している上宮法王は、かなり目障りな存在だったに違いない。上宮法王を倭王として容認したのは唐ではなくて隋であり、唐にそれを守る義理ははなかった。
李世民が馬子に「太子を暗殺せよ(そうすれば馬子の子・山背大兄の即位を黙認する)」という極秘の指令を下したとしても不思議はないのである。
蘇我氏の復権を目論む馬子にとって、唐の後ろ盾ほど心強いものはない。
嬰陽王を失った高句麗は唐の内政干渉を受け、太陽王が逃げてくるほどだったから、太子は対外的には孤立無援状態にあった。秦河勝ら、国内の太子信者たちの目さえ盗めば、太子を暗殺することはさほど困難なことではなかった。
計画は直ちに実行され、622年、太子は毒殺されたと見る。
『書紀』が蘇我氏を悪役に仕立て上げているのは、持統天皇と藤原不比等がそれぞれのご先祖である中大兄と鎌足が蘇我氏を滅ぼしたことを正当化するためだったというのがほとんど定説になっている。
たしかによくできた話ではある。これをふくらませて、聖徳太子を聖人化したのもそのためのカムフラージュであり、むしろ馬子や入鹿の方が聖人だったとする説さえある。
しかし、馬子の墓とされる石舞台古墳は石室だけが野ざらしになっているが、かつては他の古墳と同様、巨大な墳丘が存在したという。
馬子や入鹿が本当の「聖人」のような人物で、天皇家がその一族を武力によって滅ぼし、なおかつ蘇我氏を「悪役に仕立て上げた」のであるならば、死者の怨霊が怖れられた時代に、その墳丘を破壊することなど絶対にできないはずである。むしろ逆に、オオクニヌシのように丁重に祀られてしかるべきではないか。
死者が怨霊として復活するのは、それを怖れる側に後ろめたさがある場合に限られる。
しかし、馬子の墳丘を破壊した天皇家には蘇我氏を怖れる理由がなかったとすれば、天皇家にとって蘇我氏は、上宮法王を暗殺した極悪非道の一族だったということである。
まして、蘇我氏はもともと百済王家の臣下にすぎなかったのであり、いわば逆賊であった。
山背は馬子の子で、蘇我氏の宗家だったから、乙巳の変に先立ち、真っ先に殺されたのである。
逆賊だからこそ、法隆寺には山背が祀られていないのである。
上宮法王の死は信者たちとって、イエスと同様、殉教者の最期として強烈に印象付けられた。
だからこそ上宮法王=聖徳太子は「永遠のカリスマ」となり、逆に蘇我馬子は、『書紀』に、ただひとり天皇を殺害した男として永久に記録されることになったのだ。ただし、正史では太子は即位していなかったことにされているので、かわりに崇峻が「天皇」として殺されたというわけである。
では、藤原氏が、とりわけ藤原光明子が太子の怨霊を怖れた真の理由は何だったのか?
これは「新聖武」の章で考察することにする。