古 人 |
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古 人
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百済王子・翹岐
『書紀』は、皇極が即位したとされる642年、百済と高句麗の相次ぐ政変を伝えている。以下は『書紀』の要約である。
641年、舒明崩御。 642年、皇后の天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)が即位。 百済の使者が来倭し、「大佐平智積と国王の母が亡くなり、弟王子に当たる子の翹岐(ぎょうき)や同母妹の女子4人など、40人あまりが島流しになった」と伝えた。 蘇我蝦夷は、高句麗と百済の客(翹岐を含む)を難波で饗応。 天皇が百済の使者・大佐平智積を饗応。 643年、筑紫の太宰府から早馬で「百済国王の子・翹岐弟王子が、調使と共に到着しました」という知らせがあった。 |
641年という舒明の没年は、武王の没年がそのまま記されている。
百済の使者の言葉で、大佐平智積については後述するが、「国王の母」の「国王」は、武王のあとに即位した義慈王のことである。
ここでは武王の子の翹岐を「弟王子」としているので、義慈王は「兄王子」であるかのように読めるが、百済本紀には「義慈王は武王の元子」とあって、「長子」とも「嫡子」とも書かれていない。
義慈王は武王の実子ではなく、クーデターによって即位した人物なのである。だから武王の本来の後継者である翹岐が島流しにされているのだ。
このクーデターは、同年、高句麗で起きた政変と大きな関係がある。詳しくは「孝徳」で考察する。
「大佐平智積と国王の母が亡くなり・・・」とあるが、智積は642年、倭国で天皇や蝦夷に饗応されている。
『百済本紀』は600年5月に法王が「薨じた」と書いているように、百済から倭国に渡り、戻って来なかった人を死んだと表現して、両国の対外交渉の事実を隠蔽しているが、『書紀』も同様である。
ただ、百済使者が「亡くなった」と言っている人に、平気で相撲見物をさせてしまうところに『書紀』の大胆不敵さがある。
ちなみに「国王の母」も、翹岐らと共に耽羅に流され、死んではいなかった。
また、翹岐来倭の記事が642年と643年に重複して記載されているが、翹岐らは642年に耽羅に流され、643年に倭国に亡命してきたというのが真相であろう。天皇や蝦夷に饗応されたのは智積のみであり、そのとき翹岐も一緒だったかのように書かれているのは、智積と翹岐の関係を暗示するため。
なお、この場合の「天皇」はもちろん山背大王である。
大佐平智積
大佐平(たいさへい)とは百済の官位名。
智積は義慈王の家臣として、642年、表向きは親善大使として百済から来倭した。
新しい百済王・義慈王が武王妃や王子を島流しにしたことは、山背大王や蘇我蝦夷にとっても脅威だった。彼らはとりあえず智積を丁重にもてなすより他はなかった。
智積と翹岐は、帰国したという記事もないまま『書紀』から姿を消し、それと入れ替わるように中臣鎌足と中大兄皇子が登場する。
舒明のモデルは武王だから、武王の子・翹岐が中大兄であることはもはや説明するまでもなかろう。中大兄の父親が「田村皇子」とされているのは中大兄が耽羅(タムラ、済州島)からやって来たことにちなんでいるのかもしれない。
一緒に亡命してきた母は宝皇女(のちの斉明)である。
そして智積は鎌足ということになるが、『書紀』が書かれた時代はまだ誰もがそのことを知っていたのではないか。
百済で死んだはずの智積が倭国で相撲見物をしていても、真相を知る者にとっては矛盾ではない。
ここで「敏達」のところで紹介した583年に百済より招いた達率日羅の謎のセリフをもう一度読んでいただきたい。
「有能な人物を百済に遣わして、その国王をお召しになるとよいでしょう。
もし来ないようでしたら、その大佐平か王子らを来させましょう。
そうすればおのずと天皇の命に服従する気持ちが生ずるでしょう。」
未来を予言するかのような発言である。
「国王」は法王(来倭して上宮法王)のことだろうか。
百済の法王を「有能な人物」が迎えに行った事実があったのかもしれない。
「もし来ないようでしたら」とあるが、法王はちゃんと来たものの、馬子に殺されてしまった。
それで「大佐平か王子」、つまり智積(鎌足)と翹岐(中大兄)がやって来て蘇我氏から政権を奪い返す、のちの山背殺害や乙巳の変を、達率日羅の口を借りて予告しているのだ。
義慈王が宝皇女と翹岐を島流しにしたのは、百済国内に残る旧武王派に対する見せしめであると同時に、実は蘇我氏を油断させるための作戦だったと私は考える。
つまり、翹岐らは、蘇我氏を倒すという目的のために「流されたふり」を演じ、倭国での彼らの行動の黒幕が義慈王であることを悟られないよう努めたのではないか。
義慈王の正体は、上宮法王の後継者争いで山背に敗れ、のちに百済に渡ったもと高句麗王子・軽皇子に他ならない。
彼はのちの孝徳だから、宝皇女の同母弟である。
したがって彼は武王の「兄王子」ではなく、正しくは「武王の義理の弟」だったことになる。
武 王 = 舒 明
武王妃 = 宝皇女(皇極、斉明)
義慈王 = 軽皇子(孝徳)
翹 岐 = 中大兄
智 積 = 中臣鎌足
入鹿を巻き込む
俗説では、641年の舒明の死後、皇后の皇極を即位させたのは入鹿で、未亡人である皇極をたぶらかし、彼女の影で全ての実権を握ったとされている。
火のないところに煙は立たないと言うから、入鹿と宝皇女の間にはたしかに男女関係があったのかもしれない。
ならば、むしろ宝皇女の方が入鹿をたぶらかしたのではないか。
『書紀』は宝皇女を身分の低い家柄としているが、実は武王妃で、(証明は後回しにするが)上宮法王の娘だったのである!
大安寺の資財帳が太子と田村を親子のように記しているのは、両者が百済王の系譜の上で、法王〜武王という親子関係にあることと、太子の死後、娘の宝皇女が武王に嫁ぎ、太子と武王が義理の親子関係になったことを意味しているのだ。
宝皇女にとって、上宮法王の仇を討ち、息子を倭王にするためならば、もと武王妃というキャリアとペルシア系のエキゾチックな容姿、そして熟女の色香で、入鹿を骨抜きにするぐらいは造作もなかったはずだ。
私がそう考える理由は、643年、入鹿が何の得にもならない山背殺害を巨勢徳太に命じたのは、宝皇女が女の武器を使って入鹿にそう命じさせたとしか考えられないからである。
どんな理不尽な事件も、原因が女ならば起こりうるのは歴史的事実である。
かつて宝皇女は、武王の正妃だった田眼皇女を追い出している。
そして、入鹿をたぶらかし、こんどは田眼皇女の兄・山背大兄を殺させた。
結果的に、継体〜欽明系の一族を滅ぼしたのは宝皇女だったと言えるのである。
古人大兄は大王だった
馬子は蘇我大王家を盤石なものにするため、田眼皇女以外にも、娘の法提郎媛(ほていのいらつめ)を百済の武王に嫁がせていた。そして生まれたのが古人大兄である。武王の子のうち、翹岐(中大兄)は百済王の後継ぎとして、古人は蘇我大王家の後継ぎ候補のひとりとして生まれたわけである。
法提郎媛は古人を産むとすぐに古人と共に倭国に戻り、古人はほとんど倭国で育ったと思われる。
(ちなみに小林惠子氏は、武王は倭国に来ていたことがあり、そのときに法提郎媛と関係を結んだとしている。)
[ 古人大兄の系図 ]
ところが百済では、クーデターで義慈王が即位した。
そして百済から智積と翹岐母子が亡命してくると、入鹿が宝皇女に入れあげ、ほどなく大王の山背が暗殺された。
蝦夷によって山背の次の大王に立てられた古人がどれほどにぶい人間だったとしても、次は自分が殺される番だと気付いたはずである。
古人は鎌足(智積)を神祇伯に任命して懐柔を試みたが、当然のごとく鎌足はこれを辞退する。
そして『書紀』はさりげなく軽皇子と鎌足の主従関係に触れ、次に、鎌足が中大兄に目を付け、法興寺の蹴鞠の催しで初めてコンビが結成されたように記している。
しかし『書紀』は、まだ来倭してもいない翹岐を無理やり登場させ、「智積は翹岐とともに相撲を見物。宴会のあと翹岐の家に行き、門前で拝礼」などと書いて、両者がそれ以前からコンビだったことをほのめかしているのだ。
韓人の謎
入鹿の首が飛ぶ!
「多武峰縁起絵巻」
奈良国立博物館 / 談山神社
乙巳の変(いっしのへん)についての『書紀』の記述を要約してみる。
鎌足は、蘇我入鹿が国家をかすめようとしていることを憤り、つぎつぎと王家の人々に接触して「企てを成し遂げうる明主」を求めた。そして心を中大兄に寄せ、法興寺の蹴鞠の催しに加わり、中大兄のぬげた鞋(くつ)を拾ってうやうやしくたてまつったのをきっかけに、親しくなった。 当日、大極殿に天皇がお出ましになった。古人大兄がそばに侍した。 |
ここでの「天皇」は皇極とされ、中大兄は母の前で入鹿を斬ったことになっている。
しかし当時の本当の大王は、天皇のそばに侍したと書かれている古人である。
皇極朝は存在せず、宝皇女は斉明のときに初めて即位したと私は考える。
蝦夷・入鹿父子を頼りにしていた古人の目前で、中大兄は入鹿を殺したわけである。
古人のセリフの中の「韓人」というのが昔から謎とされているが、父は同じ武王でも、母が法提郎媛で、ほとんど倭国で育っている古人から見れば、百済から来た中大兄(亡命王子・翹岐)は「韓人」以外の何者でもなかったのだ。