用 明

用 明

ねこ:
蘇我氏と物部氏は婚姻を結び和解したこともあったようですが、基本的には相容れなかったのでしょうか。
小林女史によりますと、聖徳太子と物部氏は近い氏族のようです。
場合によっては血縁関係ありかな、とも言っています。
そうすると藤ノ木古墳一帯が昔物部の領地だったというものうなずけますし、藤ノ木古墳は崇峻天皇の墓というもの、そうかなという思いがします。

としちん:
小林説では「穴穂部=阿波」なのですが、私は「守屋=阿波」としました。
守屋は物部氏に婿入りした突厥人、聖徳太子は蘇我氏に婿入りした突厥人というわけです。
ただ、物部氏そのものにも、たしかに中央アジア的なものを感じますね。
秦氏が物部氏の神社を乗っ取っていったのも、もともと宗教的に近いものがあったのかも。

ねこ:
花郎というのは、やはり太子と関係あるようです。
藤ノ木古墳のもうひとりの被葬者は女装していたでしょう、なんか意味があると思います。

としちん:
こんど、花郎について詳しく聞かせてください。

 池辺皇子

 馬子と推古は伯父と姪の関係だが、用明と推古は兄と妹である。
 王が替わっても王妃は変わらないのが騎馬民族の習慣だが、とりわけゾロアスター教(拝火教)では近親婚を尊び、父と娘が結婚するケースさえあったという。

 聖徳太子の奥さんに菟道貝蛸(うじのかいだこ)というヘンテコな名前の人がいる。
 彼女に関する『書紀』の記述は混乱していて、お父さんは敏達なのだが、母が広姫とあったり、炊屋姫(推古)とあったりする。
 彼女は伊勢神宮の斎宮になったが、池辺皇子に犯され、解任されたという。
 池辺皇子とは『書紀』における用明の即位前の名で、池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)を作ったのも彼である。
 (『元興寺縁起』には、池辺ではなく、冒涜(ぼうとく)の「涜」の字を当てて「涜辺」と書かれているそうだ。)

 池辺皇子が菟道皇女を犯したという表現で、『書紀』は用明と推古の近親婚を暗示しているのではないか。
 つまり菟道皇女の正体は炊屋姫(推古)その人であり、また菟道皇女を太子の奥さんだったと記してあるのも、のちに太子もまた推古に婿入りしたことに対応している。
 このように、実名を出せないとき、架空の名前を付けて別人に見せかけるというのは『書紀』が頻繁に用いる手法のひとつである。

 用明は暗殺された

 用明が即位した585年、穴穂部皇子が炊屋姫を犯そうとして、殯宮(実際は推古の宮殿か)に押し入ろうとする。
 しかし敏達の忠臣だった三輪逆(みわのさかう)に邪魔をされて未遂に終わる。
 怒った穴穂部は「ひそかに天下に王たらんことを企てて」逆(さかう)を殺そうと思い、守屋と兵を率いて池辺を囲む。
 逆は三輪山に逃れたあと、炊屋姫の宮に隠れるが、最後は守屋に殺されてしまう。
 翌年、用明が病死。
 守屋は穴穂部を天皇に立てようとし、中臣勝海は彦人大兄と竹田皇子の人形を作って呪うが、効果はなかった。

 以上は『書紀』の要約だが、穴穂部が炊屋姫を犯そうとしたとあるのは、けっしてレイプ未遂事件の記述などではなく、穴穂部が即位すれば推古は自動的に穴穂部の王妃になるわけだから、要するに穴穂部が王位を狙っていたということを言いたいわけである。
 それが邪魔されたとあるのは、用明の即位によって穴穂部の夢が断たれたことを意味している。
 穴穂部は「ひそかに天下に王たらんことを企てて」逆を殺そうと思ったとあるが、逆などを殺しても天下を取れるはずはない。
 「池辺」を囲まれ、最後に推古の宮に逃げる人物といえば用明しかいない。
 穴穂部と守屋がクーデターを起こし、推古の宮殿で用明を殺害したというのが真相である。
 『書紀』は被害者を三輪逆とし、用明はその翌年に病死したことにしているのだ。

 中臣勝海が彦人大兄と竹田皇子の人形を作って呪ったというのも『書紀』のフィクションであり、これが暗示する内容については後述する。 

 達頭と阿波

 581年の建国以来、隋は高句麗と東突厥の連合軍による攻撃に苦しめられ続けていた。
 とりわけ隋は、東突厥の木杆の子・阿波(アバ)の存在に手を焼いていた。
 隋は、西突厥可汗・達頭に突厥のシンボルである狼の旗を贈り、西突厥を味方に付けようとした。

 しかし、母系社会の騎馬民族では本妻の子以外はなかなかチャンスに恵まれず、なまじ実力がある者ほどヒドイ目にあうようだ。阿波は母親の身分が低いという理由で父のあとを継げず、一家を皆殺しにされ、583年、西突厥の達頭のもとに身を寄せた。

 あわてたのは隋である。
 阿波と達頭が手を結べば、西突厥はあまりにも強くなりすぎてしまうからだ。
 隋は、一転してそれまで敵だった東突厥に詫びを入れ、西突厥に対しては達頭と阿波を離間させるさまざまな作戦をとる。
 そして、隋はとうとう阿波の捕獲に成功。
 しかし、なぜか阿波は585年に無傷で釈放され、そのまま中国史上から姿を消してしまったという。

 一方、あくまでも反隋の立場を貫く高句麗は、隋と講和してしまった東突厥とは袂を分かち、達頭の西突厥と連合する。
 まさに虚々実々の駆け引きだが、最終的に東突厥は隋側に、西突厥は高句麗側に付いたということである。
 達頭は百済の威徳王(敏達)の要請に応えて倭国に援軍を派遣したことがあるが、もともと倭国を突厥の極東軍事拠点とし、朝鮮半島と日本列島をまとめて支配下に置く狙いがあった。高句麗との連合もそれを現実化する第一歩だったのである。

 穴穂部皇子は物部系だった

 阿波が姿を消した585年は、守屋が馬子の寺を焼いたとされる年と一致する。
 守屋は『書紀』に唐突に現れ、物部尾輿の子であるというたしかな史料もない、謎の人物である。
 守屋が物部姓なのは、尾輿の娘婿であり、その娘とは小姉君(おあねのきみ)であったと私は推理する。

 小姉君は、『書紀』には「堅塩媛の同母妹」とあり、父親が稲目ではない可能性がある。
 小姉君を稲目の娘とする通説では、穴穂部皇子も蘇我系ということになり、なぜ物部守屋が蘇我系の皇子を後援していたのか、その理由が説明できない。

 しかし、「穴穂部」という名前そのものが物部氏ゆかりの名前なのである。
 仁徳天皇の4代あとの安康天皇は、和風諡号を「穴穂天皇」という。
 安康には物部大前という忠臣がいたと『書紀』にあり、物部の本拠地である石上(いそのかみ)に都を置き、これを「穴穂宮」と呼んだ。つまり物部氏によって擁立された大王だったのである。
 小姉君の子供に穴穂部の名があるのは、小姉君の里が穴穂宮だったこと、つまり小姉君が物部の女性だったことを意味していると考えられる。

 尾輿は、自分の妻を百済の蘇我稲目に、そして娘の小姉君を聖王に差し出していたのではないか。
 しかし聖王は、尾輿の先妻と稲目の間に生まれた堅塩媛を寵愛し、正妃の座につけたために、聖王と小姉君の間に生まれた穴穂部よりも、聖王と堅塩媛の間に生まれた用明と推古の方がランクが上だったのである。年齢的には穴穂部の方が用明より上だったのかもしれないが。

 私は以前、『書紀』にはもともと尾輿の方が稲目より格上だったように描かれているので、堅塩媛が小姉君との女の戦いに勝利したことで両者の立場が逆転したのではないかと想像していた。
 しかし、実は稲目は百済人で、最初から聖王の側近だったのである。
 尾輿はその稲目に取り入るために妻を差し出したのだが、それが皮肉にも稲目のさらなる出世につながってしまったというのが真相だったようである。

 半島を経由して倭国を目指していた阿波は、穴穂部を倭王にしてやると持ちかけて小姉君と結婚し、穴穂部の新しい父親になったと私は想像する。

  物部守屋 = 阿波

 かつて百済王家の家臣であった木氏が、蘇我氏となって倭国を専断しているようすは、百済王子の穴穂部にとっても許せなかったはずである。これが『書紀』の「なぜ生きている自分に仕えないで、死んだ王の葬式に仕えなばならぬのだ」という強気な発言の根拠になっているのだろう。

 馬子は、父の稲目が苦労してつかんだ倭国の最高権力者の座を物部氏に明け渡すわけにはいかず、かつて稲目が百済に追い返した甥っ子の恵(用明)を呼び寄せ、傀儡の倭王に立てた。これが用明即位の真相である。
 しかし、隋にさえ恐れられた軍将・阿波である守屋は、馬子ごときの小細工には委細構わず、穴穂部とともに兵を挙げて用明を殺害してしまったのである。

 

 蘇我・物部戦争の真相

 蘇我・物部戦争は、倭王の座を巡る政争として考えるならば、私見では穴穂部は物部系なので、まさしく蘇我・物部戦争だったと言える。
 しかし、この戦いの末に大王の座に就いたのは穴穂部の弟の崇峻であり、真の勝利者は物部だったことになってしまう。
 このような矛盾はありえないので、私は崇峻即位はなかったと考えている。(詳細は次章にて。)

 蘇我側の軍勢には、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、平群、坂本、春日など、ほとんどの豪族が参加しており、これを単純に蘇我・物部戦争と呼ぶのは適切とは思えない。
 もともと守屋は、物部氏に婿入りした突厥人(阿波)である。
 蘇我・物部戦争の実態は、倭国が総力を挙げて侵略者・阿波を撃退した事件だったと考えるべきであろう。

 達頭が狙いを定めている日本列島に、阿波はひと足早く乗り込み、新しい倭王・穴穂部の父という立場で倭国を支配しようと考えたのである。
 もしかすると、隋は達頭が列島をターゲットにしているという情報をつかみ、これと戦わせるために、捕獲していた阿波を無傷で放免したのかもしれない。あわよくば両方死んでくれというのが隋の思惑だったのではないか。

 しかし蘇我・物部戦争では、守屋が仲間にことごとく裏切られているのが特徴的である。
 『書紀』によると、用明が仏教に帰依したいと言い出したとき、馬子は賛成し、守屋と中臣勝海は反対する。
 このとき穴穂部は豊国法師をつれて内裏に入り、守屋はこれを睨んで大いに怒ったとある。
 この記述は史実通りではないにせよ、穴穂部が最後は馬子側に寝返ったことを伝えている。(結局それでも馬子に殺されてしまうのだが。)
 中臣勝海も、竹田皇子と彦人大兄の人形に呪いをかけ、効果がないとわかると、あっさり蘇我サイドに寝返ってしまう。
 ところが勝海は、彦人大兄の「水派宮(みまたのみや)」を退出するとき、舎人の迹見赤檮(とみのいちい)に斬り殺される。
 迹見赤檮は、最後に守屋を射殺した人物であることから、一般に聖徳太子の舎人だったと言われているが、それなら蘇我側に寝返った中臣勝海を殺しているのはおかしい。
 むしろ赤檮はもともと阿波の舎人で、だからこそ最後まで阿波の一番近くにいて、阿波が油断していたところを射殺したと考えるのが正解だろう。
 つまり阿波は、仲間に次々と裏切られたあげく、最後も赤檮の裏切りによって殺されてしまったのである。

 『書紀』では、厩戸皇子が14歳ぐらいの少年としてこの戦いに参戦し、四天王に誓いを立ててオカルトパワーを発揮しているが、このとき達頭は連合国の高句麗に滞在中、馬子から阿波によるクーデターの知らせを受け、折り返し列島内の西突厥軍に阿波殺害の指令を出したというのが真相であろう。
(したがって達頭は「用明の子」として伝えられている厩戸皇子の年齢よりもかなり年長だったはずである。)
 かつて新羅軍を迎撃したことで、列島における達頭の権威たるや阿波の想像をはるかに超える絶大なもので、突厥軍のみならず、阿波の部下だった赤檮までもが達頭の指令に従ったのだと思う。ここに阿波=守屋の誤算があったのだ。