蘇我馬子 |
|||||||
蘇我馬子
としちん: ねこ: としちん: ねこ: ねこ: としちん: |
馬子、倭王になる
倭国で新羅軍を返り討ちにした威徳王は、騎馬民族の風習に従って、妻の推古を稲目の子・馬子に与え、百済に帰ったと思われる。
推古が皇后になったとある『書紀』の576年の記事は、馬子が百済王家から正式に倭王に任命されたことを物語っているのである。
稲目の蒔いた種が実ったわけだが、日本が独立する最初の方向付けをした人物として、イデオロギー的な意味での「建国の祖」として、私は蘇我稲目を評価している。
馬子以降、倭国の大王は推古に婿入りするという形で即位する。
推古は春日山田皇女に続く「倭国の影の女帝」となったのである。
推古は非常に長生きだったので、百済では威徳王(敏達)、倭国では馬子〜用明〜上宮法王の代にわたって王妃であった。
達率日羅
さて、真興王が死んでからの新羅はおとなしかったようで、倭国側も、鉄資源を加羅(任那)に全面的に依存していた5世紀までとは違い、6世紀後半ともなると国内の鉄の生産が軌道に乗り、さほど任那回復にこだわる理由はなくなっていた。
ところが『書紀』には、これとは全く相反することが書かれている。
583年、任那を回復させるために、百済より達率日羅(たっそつにちら)を招く。
倭国にやって来た日羅に、阿倍目臣(あべのめのおみ)、物部贄子連(もののべのにえこのむらじ)、大伴糠手子連(おおとものあらてこのむらじ)が、国政について質問をした(ここに蘇我氏が誰もいないことに注目)。
驚くべきことに、ここで日羅が伝授したのは、新羅攻略法ではなく、百済攻略法であった。
さらに日羅は「有能な人物を百済に遣わして、その国王をお召しになるとよいでしょう。もし来ないようでしたら、その大佐平か王子らを来させましょう。そうすればおのずと天皇の命に服従する気持ちが生ずるでしょう」と語る。
のちに、日羅は仲間に殺されてしまったとある。
達率日羅は達頭の部下で、威徳王の参謀として百済に派遣されていた人物だったと思われる。
そして、贄子らは、かつて西突厥軍の介入に反対していたグループに違いない。
『書紀』には、日羅を迎えようとする倭国からの使者に、百済・威徳王がこれを拒否したとある。
贄子らは日羅を強制的に倭国に連行し、西突厥の真の狙いが(高句麗と連合する東突厥に対抗するために)半島南部と日本列島を制圧することにあることを白状させ、殺してしまったのではないか。
思えば、西突厥の達頭は、けっしてボランティアで九州に派兵したわけではない。
達頭自身、日本列島に深い関心を寄せていたのである。
それに気付かぬ威徳王ではなかったはずだが、新羅軍を倒すためにはどうしても西突厥軍の力を借りるしかないという、背に腹は代えられない状況だったのだろう。
用明への譲位
585年 物部守屋と中臣勝海が馬子の寺を襲撃し、塔や仏像や仏殿を焼いたとされている。
『書紀』はこの年を敏達崩御としているが、敏達=威徳王は598年まで生きたという記録があるので、『書紀』の殯(もがり)に関する記述はフィクションである。
このとき「なぜ生きている自分に仕えないで、死んだ王の葬式に仕えなばならぬのだ」と怒号を発する役で穴穂部皇子が登場する。
馬子と守屋の対立は、一般に言われているような仏教受容をめぐる宗教的対立ではなく、政治的な権力闘争だった。
守屋は強硬な手段を用いて馬子に退陣を迫ったのだろう。
守屋が擁立しようとした穴穂部もまた、即位に自信満々だったのである。
馬子は586年、かつて父の稲目が百済に追い返した聖王の子・恵に譲位した。これが用明である。
馬子は守屋の要求通り、自らは退位したものの、穴穂部の即位には応じなかったのだ。
これが蘇我・物部戦争の原因だったのである。
この章のタイトルは「蘇我馬子」だが、馬子はこのように自ら倭王の座にあったのは10年間であり、用明〜上宮法王(聖徳太子)の時代は、もともと父の稲目がそうであったように、政界の黒幕として実権を握っていた。
このスタイルは、のちに藤原氏によって踏襲され、摂関政治というきわめて日本的な統治体制に発展する。
私が強調したいのは、守屋が出現するまでは馬子が名実ともに倭国の大王であり、用明や上宮法王に譲位したあとも、列島の統治者としての意識は不変だったということである。
上宮法王のカリスマパワーに動じなかったのも、馬子ただひとりだったかもしれないのだから。