2014/04/26〜28 香川&京都のお寺巡り 5/6

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醍醐寺
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きょうのお寺巡りを醍醐寺からスタートしたのは、開門時間はどこのお寺もだいたい9時なので、遠くのお寺から徐々に京都駅に戻ってくるのが効率的な時間の使い方だと思ったからだ。
醍醐寺の弥勒菩薩が未公開だったのは残念だが、まだおいらが1度も見た事がなく、仏像ファンとしてぜひ見ておかなければならないのは広隆寺の国宝第1号の弥勒菩薩である。
醍醐から太秦天神川までは地下鉄1本でラッキーだったが、あとで地図を見たら醍醐は京都駅の南東、太秦は北西。およそ連続して参拝する位置関係ではなかった(-_-;)。

太秦天神川に到着。ランチの旗が出ていた「洛ざん」という焼き肉屋へ。

ランチの焼き肉弁当、うまい。

広隆寺は秦氏の氏寺だが、太秦には秦氏ゆかりの神社もあるので見ておこう。

木島坐天照御霊神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)、通称「蚕ノ社(かいこのやしろ)」の参道の鳥居。

蚕ノ社

広くはないが、なんともパワースポット的ムード満載の神社だ。

元糺の池(もとただすのいけ)。
残念ながら近隣の宅地開発で湧き水が涸れてしまったらしい。
奥の竹囲いの中には・・・

出た、石造りの三柱鳥居!
ここもかつては下が湧き水で満たされ、中央に石を積み上げた部分が島のようになっていたと想像される。

境内に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕ノ社と呼ばれている。
養蚕と機織は秦氏が大陸から伝えた技術である。
8世紀以前の朝廷の所在地はほとんど奈良もしくは大阪だった。
京都は秦氏の本拠地で、長岡京や平安京の土地を提供したのも秦氏であり、京都御所はかつて秦河勝(聖徳太子の後援者)の邸宅があった場所の近くに建てられている。

近くにあったのが秦氏の氏神、大酒神社。

神仏分離令の前は広隆寺の中にあり、実は広隆寺よりも歴史は古いという。
字は違うが、兵庫県赤穂市坂越に大辟(おおさけ)神社がある。
古くは「大闢(門構えに辟)神社」と書き、祭神の大避大神は秦河勝のこととされているが、中国語で「大闢」は古代イスラエル王「ダビデ」のこと。
実は秦氏が渡来する前からあったユダヤ系渡来人による「ダビデ神社」だったのかもしれない。
秦氏のルーツを古代イスラエルの原始キリスト教団とする仮説があるが、ならばその子孫も宗教的な使命を帯びて極東の「日出ずる国」に渡って来たと思われる。
蚕ノ社の元糺の池は洗礼のプール、三柱鳥居はキリスト教「三位一体」の象徴。
妄想はふくらむばかり・・・

京福鉄道嵐山線、通称「嵐電(ランデン)」という路面電車。
これで蚕ノ社〜太秦広隆寺間を移動できるが、結局歩いてしまったので写真だけ。

来ました、広隆寺!

やはり弥勒菩薩イチオシ!

聖徳太子が建立したと伝えられているが、太子の死を悼んで秦河勝が建てた可能性もある。
結局、秦氏の宗教的な使命とは日本のキリスト教化及びイスラエル化だったと思う。
秦氏は聖徳太子を「再臨のメシア」と信じ、それが今も続いている太子信仰の原点なのだ。
古代においては日本の神道、釈迦の仏教、イエスのキリスト教は渾然一体となり、それぞれ都合よく解釈されてきた。仏教の弥勒菩薩は釈迦の入滅後56億7000万年後に再び地上に現れる如来とされるが、これがイエスや聖徳太子の復活と結び付けられたのではないか。

平日らしい静かな境内

本堂(上宮王院太子殿)

本尊の聖徳太子立像は毎年11月22日にだけ開帳される秘仏だが、写真で見ると、なんと天皇の即位式のコスチュームをまとっている。あやしい・・・

弥勒菩薩が鎮座する新霊宝殿(拝観料700円)。

新霊宝殿の内部は非常に薄暗いが、ひとつの部屋に50数体の仏像が安置されている光景は圧巻。
千手観音、不空羂索観音、十二神将ほか、聖徳太子の2才像や16才像もある。
弥勒菩薩はもちろん中央に鎮座。

なんという存在感だろうか。
ルーブル美術館のミロのヴィーナスの比ではない。
単にアカマツを彫って造った彫刻だと言うのなら、こんなに美しいわけがない。
この美しさは神に通じる精神性そのものの美しさだ。
56歳になっても、本当にすごいものはすごいと感じられることが素直に嬉しかった。

これも最初は全身が金箔で被われていたと推測されている。
仏像はオリジナルの姿に修復すべきだと書いたが、千三百年という時の重さを考えると、これはこれでいいのかもしれない。
もっとも、56億7000万年に比べたら千三百年なんて一瞬みたいなものだが。