ハルピン 内モンゴルの旅 二日目

 
6時にモーニングコールはあるけれども、用意があるから5時半に起きたいと母が言うので、携帯の目覚ましを、6時半にセットしました。中国の5時半は、日本の6時半なのです。中国はどこへいっても、日本マイナス1時間なので、分かりやすいですね。
私が聞いた話では、ほんとうーは中国だって、国の端と端では時差が10時間くらい欲しいんだけど、昔、中国のある偉い人が(だれだか忘れた)「自分が朝ごはんを食べている時に、夕ごはんを食べている人がいるなんてゆるせない」と、全国を北京時間にしたんだそうですね。

ハルピンで食べる最初で最後の朝食は(汗)味のないおまんじゅうとか、パン、あとはスイカにコーヒーでしめようとしたら、うどんがあるというので、早速食べてみました。日本で食べるのとほとんど同じうどんで、美味しかった。

7時半に出発で、ウランホトへの旅が始まります。
きゅうさんはハルピンに残るので、私たちは13人。従ってマイクロバスなので、スーツケースをバスの下に入れられません。後ろの席において出発したんですが、畠野さんというちょっと変わったお じさんが、なんでスーツケースをハルピンにおいていかないんだ、そうしてくれたら後ろが空いて、自分が寝ていけるのに、とわけ分かんないことを言って、おいていけるものなら始めから中国へ持ってこないわけだから、私たちみんな、ハルピンの同じホテルに戻ってくるのを承知で、スーツケースは持っていきました(汗)
バスはハルピンのある黒竜江省を出て、吉林省を抜け、白城という所でお昼を食べて、内モーコ自治区へ入っていきます。
白城でのお昼はちなみに、きくらげのいためものが美味しかったってメモに残っているだけ。あとはうーん、辛くて食べられない麻婆豆腐とか、えらく塩っ辛いコンビーフみたいなもの、それにモンゴル料理の一つである、うどんが出てきました。このうどんに辛い味噌だれをつけるんだけど、私は醤油をかけて食べていました。朝と違って、太ーい、あまり美味しくないうどん。ああこれがモンゴル料理かと、ちと不安になり始めていました。

さて、3時半に、内モーコ自治区のジンギスカンのお墓へ着きました。
そう、ここまで8時間かかって、600キロを走ってきたわけ。
トイレ休憩と食事休憩以外、ほとんど渋帯もなしでつっ走ってきましたから、遠さを想像して下さい。
ジンギスカンの墓は階段が多いとのことなので、私は下で「ジンギスカンの墓」という字のところ に立ち、写真を撮るだけにしました。
ジンギスカンが源義経だった、という話はここでは全然なくて、こんな話を聞きま した。
ジンギスカンのお父さんは、村で一番偉い人だったんだけれど、だまされて、毒入りのお酒を飲まされて殺された。残ったのはジンギスカンを含む4人の兄弟と、二人のお母さん。そう、ジンギスカンと弟は一人のお母さん、そしてあと二人の兄弟は、腹違いの兄弟だったのです。
貧乏だったジンギスカンの家族は、魚をとったり、野菜を食べたりして暮らしていた。そう、モンゴルでは貧しい人が、魚や野菜を食べたんですって。羊を飼えないということで。
ある日、ジンギスカンの弟がとった魚を、腹違いの兄弟の小さい方の子が奪った。ジンギスカンは怒って、夜中にその奪った子を殺そうとしたのだが、奪った子の兄が、どうか小さい子を殺さないでくれ、僕を殺してくれというので、ジンギスカンはその腹違いの兄弟を殺した。
ジンギスカンのお母さんが泣いて悲しんで「私たちには友達もお金もない。たった4人の兄弟で、どうして仲良くできないんですか」とさとし、ジンギスカンはそうでした分かりましたと反省した。それがなんと、ジンギスカン9才の時だった。そして後に立派な帝国を作った。と、こんな話を聞きました。

さて、バスはジンギスカンの墓を出発し、1時間ほどで今夜の宿、草原に着きました。
ハルピンは28度くらいで、ちょっと暑かったんですが、さすがにここは涼しい。  
もう夕方になっていて、帰ろうとするお陽様と、出てきた月が、ひきつぎをしているようでした(そんなことあるかな?)
Kさんに頼んで、パオというものの写真を、私の携帯で撮ってもらいました。
写真の撮り方は私も教わったつもりだけど、自分でやっても、撮れるかどうかまるで自信がなかったから。
「これ、もっと大きく撮るにはどうするんですか?」と尋かれたけれど、たぶん無理だと思うわー、31万ガソだからと言って、そのまま撮ってもらいました。
モンゴル相撲を見学してから、夕食の支度ができているパオにいきました。
キティーちゃんがモンゴル服を着ている、という絵の付いたプラスチックの椅子に座り、羊の肉とか、いろいろ食べつけないものを出されたけれど、食べられそうなもの、例えばじゃが芋とか、ごはん、こんにゃくのような麺のようなもの(だれかが、マロニーちゃんだと言っていた)を食べていました。あとは、日本でいう豆腐だという、辛い味噌みたいなものを食べ、母は白菜の漬けものの、乳酸菌の入ったものを食べていました。
唯一、食べつけないもので美味しかったのが馬乳酒。
なんか甘ーくて、カルーアミルクのような味でした。
ただ、カルーアミルクみたいに飲みやすくなっていませんから、2、3杯で止めました。
あと、旅行社からのサービスですという強いお酒もなめてみましたが、ちょっとパイナップルみたいな味もしましたが、ほんとに強そうだったのですぐ止めました。

食後、みんなで雑談していたんだけど、とにかくガイドはいないし、お給仕(?)をしてくれる女の子は、英語もなにも通じないので、「とり皿を持ってきて」などの微妙な注文が伝わらず。
すると、どこからか聞えてくる、あのモンゴル独特の音楽。
ああ、ああいうのが聞きたいわねえと言ったら、みんなも同じ気持ちらしく、聞かせ てもらうことになりました。
実は「一人1500円」というので、添乗員さんは一度断わっちゃったんだそうです。
音楽はやっぱり聞きたいから、お金を払いますよーと言って、みんな払って、聞かせてもらうことになりました。
待ってましたとばかりに、4人の男女が入ってきて、音楽が始まりました。
最初「北国の春」を大ボリウムで歌われた時には、正直、すごーく1500円がもったいないと思ったけれど、2曲目からモンゴルの歌に替えてくれて、よかったです。
携帯に録音し、後で友達にメールしたりしました。
30分くらいいろんな歌を聞いて、おひらきになりました。

寝る前の洗面といっても、水はなにもありませんから、旅行社からもらったペットボトルの水を口に含んで、それでうがいをし、トイレはあるんだけど、パオからあまりに遠いので(歩いて5分くらい)夜は青空でいいということになりました。
男女別相部屋、と書かれていたので、てっきり女7人、同じ部屋に寝るのかと思ったら、分けてくれて、私と母は梅沢さんという奥さんと3人で寝ることになりました。
梅沢さんの旦那さんと、畠野さんというあの変わったおじさんと、添乗員さんが男性のテント。
残る女4人と、カメラマンの竜ちゃんが、また別のテントらしいのです。

さて、もっとも興味のあったパオの寝心地ですけれど、盲学校のキャンプの時のテントとは、全然違いますね。大きくて、身体をくっつけ合わなくても寝れます。新しいとはとてもいえないけれど、変なにおいのしない、清潔そうな布団と枕と毛布があります。盲学校のキャンプの時みたいに、毛布だけをかけて寝るわけではありません。もっとも、あの寒さ。毛布だけではとても寝られないでしょう。夜中にふと自分の顔をさわってみたら、ホッペが異常に冷たかったもの。

こうして、することもないし明日も早いので、さっさと9時過ぎに床についたのでした。