コーカサスの旅 前編

 
コーカサスの旅その1 プロローグ

5月20日から6月1日まで、アルメニア・グルジア・アゼルバイジャンへいってきました。
もともとグルジアとアゼルバイジャンへいきたかったのですが、この二国だけのツアーというのがどうしてもなく、ムールマンスクへ母と二人でいったような勇気もなかったので、ちょっとしょうがなく、アルメニアに四泊するツアーに加わりました。
直前のチェチェン大統領暗殺や、暗い材料はいっぱいあったのですが、どうにか人数が揃い、出発することができました。
何日になにというのでなく、テーマ別に書いてみます。
今回はプロローグ代わりに、初日の5月20日の話を書きます。

前夜から成田のホテルに泊まっておいて、朝10時に空港集合。
こういう変わった国へいくだけあって、うちのツアーはほとんどが女性の単独参加、私以外みんな、60才以上とおぼしき人たちが集まりました。
空港の免税店で買い物をしてこのカードを出すと、粗品がもらえますと、旅行社からカードを渡されると、がぜん買う気になる私と母。
免税店で母はまゆずみ、私はビタミンCの飴を買って、さて楽しみのカードを見せると、がびーん、耳掃除の棒でした。うちの家族はだれも、使わないのです。ツアーの他の人に聞いたら「買わなきゃもらえないですと聞いてやめた」とのこと。うーん、初日から私がいじきたないことがばれてしまったなあ。

飛行機でモスクワへ飛ぶのは10時間、次はなんと6時間も待ち時間があります。
5時半に着いて、夜11時20分発のエレバン行きに乗るのです。
もう眠いやら退屈やらで、座っていようにも椅子も足りません。
座っているうちのツアーのおばさんは「元気そうに見えるけど私きょうしん症なの」と言ってました。立っている私も「私も元気そうに見えるけど骨折してるの」とほんとうのことを言ってみたけど、しかとされた(^_^)。
エレバン行きの飛行機で機内食を食べ終わったら、今度こそもう座っているし、私も寝ていました。
翌21日の午前3時20分、日本時間なら21日の朝7時20分に、アルメニアの首都エレバンに着き、長い長い私の5月20日が終わりました。でもこれはまだ、旅の始まりなのでした。

コーカサスの旅その2 アルメニア編

アルメニアの面積は29,800平方キロメートル、人口は320万人、うち110万人が首都エレバンに住んでいます。
国の76パーセントが、標高1000メートル以上の所にあって、首都エレバンも、実は標高800メートル。
私の住む新潟は、一番高い所でも標高は30メートルほどだし、私は山登りの趣味はないので、私の人生の中で一番、高い所へいきました。
お金の単位はドラム、1ドルが500ドラムくらいです。
アルメニア語のおはようございますは「バリールイス」こんにちわは「バリオート」ありがとうは「シュノルガルツー」と私には聞えました。言ってみても通じないこともあるかもしれないけど、一応まあ、私の耳にはそう聞えたってことで。

アルメニアの人はなかなか人なつこく、博物館などで私が見学をパスして座っている時、朝食の時、博物館のおばさんやらボーイさんやらがロシア語で声をかけてくれます。
7才だという男の子に「結婚しているの?」と尋かれた時には、笑ってしまった。
市場のおばさんはアルメニア語でべらべらしゃべるので「ロシア語で話して下さい」と言ってみると、すぐに替えてくれて、私が試食していたイチゴの値段を教えてくれました。
ただ、あまり物が安くありません。
絵葉書は1ドルで2枚、よくても2ドルで13枚です。
私は13枚も要らないし、 1ドルで2枚買いました。
市場もあまり美味しいものはなく、私が食べたイチゴもちっとも甘くなかったけれど、せっかく来たんだからとカシューナッツを買いました。

アルメニアでいった所は歴史博物館、古文書博物館、そして私の苦手なアルメニア人虐殺博物館。
知り合いでないけれども、こういう、人がいじめられる話はきらいだ。と思っていたらただいま修復中で中に入れませんでした。ありがたかった。
しかしガイドのローザさんの説明はかなり長く、英語の分からない私はちょっとうんざりでした。
アルメニア人の虐殺というのが、今までに2回ありました。1895年から96年にかけてと、1915年です。お相手はトルコ、しかし今もトルコは、そういう事実があったことを認めていないそうです。なので今、アルメニアとトルコは絶交状態なのです。

それから、教会にめっちゃくちゃたくさんいきました。
ガルニ・ゲガルド・エチミアジン・最後の日にいったハフパット宗導院、中で一つだけ印象に残ったのがリプシマ教会です。
昔リプシマという女の人が、王様に結婚を申し込まれた。
しかし彼女はベガという神様を信じていたので断わったところ、王様の家来が追ってきたので、おつきの人とともにここへ逃げた。
しかし最後には、投石によって殺された。
今もここに、リプシマの遺体が埋まっていると信じられています。
私はこの教会の、高さ5センチくらいのミニチュアを買ってきました。
他の教会はみんな同じ。祭壇があってお話を聞いてお土産をみて。
私はしまいに、バスから降りなかったりしました。

博物館より寺院よりはるかに楽しいのが、セバン湖遊覧でした。
大きさは忘れちゃったけれど、標高2000メートルくらいの所にある湖です。
船に乗る前に岸辺で水をさわったけれど、案外あたたかかった。
船では船員さんが、商魂たくましく、絵葉書を売って歩いてました。

アルメニア最後の夜は、民族音楽のコンサート付きでした。
100キロはあろうかという体格の女性が、ものすごく高い奇麗な声で、哀愁のある歌を歌ってくれました。
この人となら私も細く見えるかしらと、写真を撮ってみた。
ロシア語で「楽器をさわらせてもらえますか?」と頼んだところ、歌とは全く違う低ーい声で返事をしてくれて、他のメンバーになにやら話してくれ、11本の弦のギターや、一番アルメニアらしいという縦笛(吹いてみたかった、かんせつキスでもいいから)、あとボンゴのような音がして形はドラムみたいな、太鼓もさわらせてもらえました。おまけに「ロシア語が上手ね」などとおせじを言われて、来たくて来た国ではないけど、ちょっとうれしいエピローグでした。
5月24日、バスで国境を超えて、待っていたグルジアへ入ったのでした。

コーカサスの旅その3 グルジア編

グルジアの面積は7万平方キロ、人口は500万人だったかな?うち150万人が、首都のトビーリシに住んでいます。
お金はラリ、1ドルは1.85だったり、いい時は2ラリで計算してくれます。
グルジア語のおはようございますは「ディアマムシュドビサ」ありがとうは「マードロバ」かんぱいは一人の人が「ガウマル」と言って、みんなが「ジョース」と言います。
グルジアの人は、どうもアルメニア人ほど人なつこくありません。
話しかければもちろん応えてくれるけれども。
市場も、尋ねてみればどうだか分からないけれど、試食がありませんでした。

こんなにも望んでいったグルジアですけれど、またいくかどうか、正直言って分かりません。
その一番の理由は、道路事情が悪いのです。
私もバスよいに苦しみました。
それにこの頃、骨折の薬のせいで胃が痛くて、バスが揺れるたびにグッときてました。
道が悪いといわれて覚悟していたグルジア軍用道路はそうでもなかったけれど、グダウリに向かう山道はほんとうに苦しかったです。でも、これでもよくなったそうです。

グルジアのツアー2日目にして、うちのツアーはなんとバスを替えさせました。
窓ガラスがきたなくて、写真を撮れないから。
私はバスより...添乗員を替えて欲しいぞ。
どうもアルメニアの頃から気づいていたのですが、今回の添乗員さんとは合いそうにありませんでした。バスと運転手さんはセットなので、翌日からは運転手さんも変わると言われ「ごめんなさいね、また会いましょうね」とロシア語で言って降りたけれども、もう返事をしてくれませんでした。
そういえばこの一人目の人は、会った時から機嫌は悪そうだったな。
二人目の運転手さんになって、うちのツアーが満足したかどうかは分かりませんが、とにかく二人目はテンギスさんという人でした。みんなが子どもたちのパレードをみている間、私と母だけバスに残っていたことがありました。この時、目の前に雑貨屋さんのような店があったし、私はジュースを欲しかった。でも手持ちの現地のお金は、昨夜のワインのおつりの1ラリしかありません。それでテンギスさんに「このお金で買えるジュースはあそこの店にあるかしら?」と尋ねてみたところ「みにいこう」と一緒にバスから降りてくれました。パインジュースが1個買えるけど、もっと欲しい?と聞かれ、私は1個でいいと言ったつもりなのに、運転手さんにも母にもなんと伝わらず、2個の紙パックのジュースを買い、足りない40コペーカは運転手さんが出してくれました。後で細かいお金ができた時に払おうとしたのに、がんとして受けとってくれませんでした。しかしその受けとってくれなかったお陰で、これまた後にトイレにいきたくてふるえた時に、有料トイレのお金をあの小銭で払うことができました。テンギスさんに神のお恵みがありますように。なんてがらにもないことを思っちゃったりしました。

グルジアでいった所は、メテヒ教会、シオニ教会、標高2300メートルの十字架峠、そして標高2000メートルの所にある、私たちも一泊したホテルなどなどでしたが、印象に残ったのはなんといっても、ゴリという町にあるスターリンの生家でした。
ここに実際にスターリンが住んだわけではないけれども、場所はここだったし、家もスターリンのお母さんの話を元に、再現して作ったそうです。
そのあまりの狭さにびっくり。
4畳半かなという広さで、そこにベッドからサモワール(ロシア式のやかん)から、生活用品がみんなあるのです。
サモワールは一度だれかに盗まれたそうだけれども、しばらく後に近くに捨てられているのを、ここのガードマンが発見。きっとスターリンの幽霊がこわくて、犯人が返しにきたのではないかと言われているそうです。
そしてスターリンが使ったという、いわばおめし列車も見学しました。
ここはこれまた、1両の車輛がベッド、また1輛がキッチンと、ほんとに豪華でした。

それから自主的に(?)いったのが、ホテルのプールでした。
いつも旅行に水着を持っていくのに、97年のローマ以後、使えたためしがありませんでした。
今回も荷物を減らさなければいけないと思ったのですが、日本にいるうちに旅行社に電話して、今回いくホテルにプールはありますかと尋いたところ、グダウリのホテルにありますとのこと。それで持っていきました。
標高2000メートルなだけあって、ここは冬はスキーの名所。
ホテル名も文字どおり「スポーツグダウリ」といいます。
ここに、屋内プールがありました。
骨折が治りかけで、こんな時に運動していいかどうかを考える間もなく、水着に着替えてレッツゴー。
プールの水はかなり冷たかったので、しばらくじっとしておいて、そしてだれもいないプールを、2周くらい泳ぎました。
ずっと運動不足だったからハーハーしちゃったのと、寒かったので、次はジャグジーへいきました。
日本を出て以来、久しぶりに肩までつかれるお湯に入り、泡がボコボコ腰にあたって、何十分でも入っていたかったけれど、母が洋服のまま岸で待っているので、しかたなく上がりました。あそこだけはもう1回いきたいなあ。

グルジアのガイドがこれまた、びっくりするような人でした。
食後、みんながお茶を待っている。
やがてレストランの人がお茶を配り始めた。
そうすると、ガイドのマリカさんは真っ先に自分のお茶を取りにいって、飲み始めるのです。
もうあんまりのことに、びっくりしました。
おまけに、買い物をしたい人がいて、通訳して欲しい時に、新聞を読んでるし。
あんまり買い物熱心なガイドも困るけど、あんまり非協力的なのも、ちょっとひどいと思いました。
集合する時も一番遅くくるし、早く来た時でも、まだ出発しないと分かるとフラーッとどこかへいっちゃったり。
しかしこれが、話してみると全く普通の人なのです。
ただやることが遅いだけ。
私のロシア語も非常によく聞きとってくれて、私のロシア語を聞きとれない人に通訳てくれたり。
最後には、私の名刺をあげてきました。
いつかロシア語で、メールをもらえたらいいなと思います。
でもきっとくれないな。私のことは忘れちゃう人だ、あの感じでは。

グルジアの時にも、夕食に民族音楽が付く、という時間がありました。
4人のむさくるしい(笑)おっさんが同じテーブルに座ったので、ちょっとワクワク。
私の期待どおり、それはポリフォニーを歌う人たちでした。
グルジアの男ならだれでも歌えるという噂のポリフォニー、ちょうどダークダックスみたいな男性合唱ですが、日本語じゃないので、言っていることが分からない分、奇麗に聞えます。
ポリフォニーのCDも買ってみたけど、なまの方がはるかにはるかに奇麗でした。
グルジア国歌を歌ってもらえて、満足でした。

いよいよトビーリシを離れて次のアゼルバイジャンへいく時、ガソリンスタンドでトイレを借りたついでに、余っていたグルジアのお金でマーブルチョコレートを買い、その残りのわずかなお金を、もう一度テンギスさんにさし出してみました。もう私たちは要らないから、というようなことを言って。そしたらやっと受けとってくれました。よかったよかった。

コーカサスの旅その4 コーカサスの食べ物

旅行中にこんなにお酒を飲んだのは、今回が初めてでした。
アルメニアではおとなくしてたけど、グルジアに着いてすぐ飲んでみたツィナンダーリがあまりに美味しくて、それから幾度も飲みました。翌日に具合が悪くなる、ということもなかったし。
モスクワでおじゃましたお家でも、甘くて美味しいワインを出され、おかわりしちゃいました。
グルジアといったらブドウを思い浮かべるんだけど、やっぱりワインも特産のようで、ワインのお店へもいきました。
グルジアでもう一つ飲みたかったもの、それはツィナンダーリ同様ロシア語のテキストに出てくる、ボルジョミというグルジア産のミネラルウォーターでした。
日本人の口には合わないだろうということは聞いていたので、ちょっとだけコップについでもらって飲んでみたところ、うーん、ほんとに合わない(汗)ガス入りの水でした。でも、ロシア語の教科書に書いてあるものを全部飲むことができて満足でした。
アルメニアは、私は飲まなかったけどコニャックが名物らしいです。
アゼルバイジャンはなにが美味しいのか、地元の人に聞いてみたかったけれども、どうもそういうチャンスもなく、ただテーブルに出てくるものを食べていましたが、その中で軍を抜いて美味しかったのが紅茶でした。だからモスクワの人へのお土産も、家へも、みんなアゼルバイジャンティーをお土産にしました。軽くて持ちやすくて、お店にもよく売っていて、ほんとに名物なのかもしれないなと思いました。
うちのツアーに一人「グルジアにいった人から紅茶をもらった!グルジアは紅茶が名物だ!」と騒いで買っているおばさんがいたけれど、どうもあれは落語でいえば「目黒のさんま」ではないかと思う。その証拠に、グルジアには紅茶専門店もなかったし、スーパーに並ぶお茶も、スリランカティーだったりしたもの。

食べ物を思い出すと、アルメニアにだけなぜかナンがありました。
他にカレー味のサラミがあったり、なんかちょっぴりインドに似ています。
グルジアは特にびっくりするようなものはないけど、ヒンカリという、餃子と肉まんのあいのこみたいなもの、これが一番グルジアらしいかと思います。
皮はとっても厚くて、大阪の551のぶたまんみたいな感じ。
中は羊肉みたいな、ちょっと臭味のあるお肉と、香りのある野菜です。
私は一つ全部食べましたが、地元の人はヒンカリの尾っぽ、という言い方もおかしいけど、皮の端っ子をくっつけた、とんがった所を残すそうです。なんかちょっともったいない気もするけど。

そうそう、バスの窓越しだけど豚が見える、黒豚だとだれかが言ったので、私が「美味しそうー」と言ったら、その黒豚がいっっさんに走って逃げていったのがおもしろかったです。
アゼルバイジャンはイスラムの国なので、豚肉が消えます。
豚肉くらいなくっていいわと思ったら、私のきらいな羊さん登場。
どうも羊肉は、臭くて苦手です。
羊じゃないけど、こんなこともありました。
ある教会の前で、母が「あの山羊、具合が悪いのかしら、歩けないみたいだけど。あら、歩けるんじゃん」などと言っていました。
ガイドいわく、この山羊を連れている人のお家で、今晩なにかパーティーがあるのだろう、その前に山羊を教会へ連れてきて、祈りをささげてもらって、それを料理するんだって。
で山羊としては「仲間が教会へいった後は、ひどいめにあうんだ。噂に聞いてるもんね。だからいきたくない!」と抵抗していたんではないか、とのことでした。
動物を飼っている家の子どもたちは、こういう時に泣くこともあるけれど、やがて慣れていくとのことでした。

最後の日にモスクワで食べたペリメニ、これがまた美味しくて、やっぱり食べ物は(日本の次だけど)モスクワは美味しいなと思いました。

コーカサスの旅その5 お話いろいろ

今回はいろんな人から聞いた話をミックスで書こうと思います。
前にもちらっと書いたとおり、今回は添乗員さんと合いませんでした。向こうもそうだったんでしょう、アルメニアの時の集合写真に私と母は写っておりません。ああいう時、普通は待ってくれるのに、私と母がトイレにいっている間に撮ってしまわれました。ま、別にいいけど。
その上、なにか尋くと、むかあっとするような応え方で返事が返ってくるのです。
幸か不幸か、添乗員さんはロシア語は分からないし、三ケ国ともロシア語が使える国だったので、私はガイドから、いろんな話をロシア語で聞くことができました。いろんなっていっても、私のロシア語力が幼稚園なみなのですが。英語で聞くと、添乗員が口をはさんでくるから。
アルメニアのガイドさんが一番、なんというか日本人的でした。集合時間にちゃんとくる、という、どのガイドでもやりそうなことを、他の二国ではみなかったのです。
アルメニアのガイドさんはロシア語の発音も奇麗で、字でいえば楷書のような感じ。
アゼルバイジャンのシェーラさんは、二日間しかご一緒しないからよくは分からないけど、私たちがモスクワへ発つ時「いっちゃうのが残念だわ」とロシア語で言ってくれて、おせじかもしれないけれどうれしかったです。

それからうちのツアー、こういう、ちょっと変わった国へ来るのはどういう人たちかしらと思っていたら、みんなすごいの。別にアルメニアやグルジアへいきたかったというより「いったことのない国を埋める」という感じで、南米へいった、南極へいった、はては「北朝鮮へいった」などの話を、とても興味深く聞きました。
ただ一人、こっちが聞きもしないのに自分の海外旅行の話やアメリカに住んでいた話を、ずうっとしゃべりまくるおばさん、彼女だけは大きらいで、私は避けていました。

また「自分はキリスト教だから、今回は教会にいっぱいいくから参加した」という女性がいて、彼女には「最後の晩餐」の彫り物の説明をしてもらいました。
絵の方の「最後の晩餐」は昔、ミラノで説明は聞いたけれども、当然さわれないから、よく分からなかった。
リプシマ教会に売られていたこの絵の掘り物で、「君たちの中で僕を殺そうとしている人がいるね?」と言っているキリストはここ、金貨30枚の財布を持っているユダがこれで、「え?イエス師匠は今なんて言ったの?」と言って隣りの人に聞いているピエトロがこれで、とみんなさわって教えてもらえました。別に私はキリスト教信者ではないけれども、あれはほんとうにいい体験でした。

コーカサスの旅その6 アゼルバイジャンの話

アゼルバイジャンの面積は8万平方キロメートル、人口は810万人、うち250から300万人が、首都バクーに住んでいます。
アルメニアもグルジアも、実はキリスト教の国でした。
なので生まれて初めて、イスラムの国へやってきました。
ちょっと前にトルコにいった人の文を読んで、そうか私も朝5時半にコーランで起こされちゃうのかなあ、ちょっとやだなあと思っていましたら、それはありませんでした。
というか、こちらではコーランそのものはスピーカーでは流さず、コーランの時間だよーという音楽が流れるだけで、それも5時半よりもっと早い、日の出の頃なんだそうです。
「アゼルバイジャンはスカーフがいりますよ」旅行社のNさんはそう言っていたけれども、いってみるとだれもスカーフなんてかぶっていません。弱ーい、イスラム社会なんだそうです。

アゼルバイジャン語ももちろんあるはずですが、もう私たちはだれも教わろうとも思いませんでした。たどたどしく発音しても通じないし。
三ケ国で一番、ロシア語が話されている国でした。
アゼルバイジャンのお金はマナト、1ドルは4800マナトだったり、うんがいいと5000で数えてくれます。
三ケ国で一番収入が少ないそうで、500シーシーのファンタが一本40円くらいで買えます。

アゼルバイジャンで最初にいった所は、旧名をキエロフ公園、現在の名は「殉教者の小道」という所でした。
小道の両側はずうっとお墓、しかも死んだ年は書いてありません。
ほとんどが91年のロシアとの戦い、また93年のアルメニアとの戦いで死んだ人なので、亡くなった年号はもう書かないんだそうです。
兵隊さんなら分かるけれども、24才の女の人とか子どもとか、いったいどんなことがあったんだろうと考えさせられます。
だから今も、アゼルバイジャンはアルメニアと国交がありません。
アルメニアではそういう話は聞かないけれども、アゼルバイジャンへきたら、アルメニアの話はやめましょう、とのことです。
いくら日本語で分からなくとも「アルメニア」という単語が出てくると、現地の人はピクリとするそうですから。
ただ、アルメニアのガイドだったローザさんはアゼルバイジャン出身のアルメニア人だし、人と人とはほんとうは憎み合ってはいないのだ、という話も聞きました。

アゼルバイジャンでも幾つかの観光地へいったけれど、その中で乙女の塔とカスピ海、そしてゾロアスタ教の寺院の話を書きます。
乙女の塔というのは、昔ある女の人がお父さんから結婚を申し込まれて(昔はこういうりふじんなことが、よくあったんだそうだ)この塔からカスピ海へ身を投げたといわれている塔。
しかしこの塔はカスピ海から少し離れているので、昔はカスピ海がもっと、この塔に近かったのではないかという話です。
その28メートルの塔に上る人はどうぞ、上らない人は絨毯屋さんへどうぞと言われ、私は迷わず買い物の道を選びました(笑)しかし絨毯を欲しいはずもなく、ぼーっとみんなの買い物の見学。すると店員さんに「あなたはどこからきたのか」とロシア語で声をかけられ、日本からですよと応えた途端。今まで絨毯を裁断していた店員さんがスクッと立ち上がって「私はトルコ人だ、私は日本が大好きだ」とすごい勢いで言うので、驚いちゃいました。アゼルバイジャンには、同じイスラム教のトルコの人が、たくさん働きにきているんですね。

カスピ海は37万平方キロメートル、日本がすっぽり入るくらいの、世界最大の湖です。
でも「海」って付くんだから、もしかしてしょっぱいのかしら、水をさわらせてもらうついでになめちゃおう。そう思って、飲み終わったミネラルウォーターのペットボトルをシェーラさんに預けると、ほんとうに水をくんでくれました。
遊覧船の中でちょっぴりなめてみて、ほんとに塩辛かったです。
船が通ってるんだからきたない水なのにと、母には怒られたけれども、私は確かめることができて大満足でした。
セバン湖のように絵葉書は売りにこなかったので、後でホテルで聞いてみてもみつからず、違う湖の葉書を出されました。後で聞いたらそれは「塩湖」ではないかという話でした。
翌日のゾロアスタ教寺院にいく時に、窓越しに塩湖の説明だけ聞きました。
ここもしょっぱいのかなあ、味見したい(おいおい)

今までキリスト敬の寺院ばかりいっていましたが、ここゾロアスタ教の寺院は、全く面向きを異にして、一つ一つ小さな部屋になっていて、ここに人が泊まれるようになっています。そして、死ににくる人もいるそうで、なんだかガンジス川を思い出しました。
祭壇もお土産物もない、全く予想と違う寺院でした。

バクーはペルシャ語で「風の町」という意味。
その名のとおり、三ケ国で一番暑かったんだけれども、涼風が吹いてきて、ものすごく暑いという感じではありませんでした。