インドへいってきました 前編

 
プロローグ 

2月5日から13日まで、インドへいってきました。この辛いものの苦手な私が、なんでインドかといえば、象さんに乗りたかったからなんです。けどなかなかちょうどいいツアーがなく、視覚障害者用のこのツアーならいいんじゃないかと、いってきました。
訪れた都市は、首都のデリー・ジャイプール・アグラ・ベナレスでした。

ツアーは全部で10人でした。
私たちお客が9人と、添乗員です。
ところがインドではバスにサイドミラーがなく、人間サイドミラー君が常に運転手の横にいて、日本語をしゃべるガイドが二人いて、そしてローカルガイドという、日本語はしゃべれないけれど手くらいは引いてくれる人がいて、だいたい15人くらいでいつも移動していました。だから、後で私の母が病気になっても、だれかしらが私の手を引いてくれました。
それから、デリーからアグラまで一緒だったバスの運転手さんはシーク教とかで、ターバンを巻いているから分かり難いけれども、生まれてから死ぬまで髪を切らない人。ターバンを巻かない時は髪はどのくらいの長さなのか、シャンプーはどうするのか聞いてみたかったです(汗)

インドのお金はルピー、1ルピーは2.5円くらいです。
ホテルでジュースを飲むと100ルピーだけれども、日本へエアメールを出すのは10ルピー、トイレに入る時のチップも10ルピーです。高いんだか安いんだか。
まあそんなわけで、旅は始まるのでありました。

インドへの旅 ジャイプール編

首都デリーからバスでたっぷり5時間、やく一日かけて、私の目的の象さんの町、ジャイプールへやってきました。
ここはピンクシティーといわれているそうですが、ピンクというよりむしろオレンジ色だっけ?色の名前は忘れてしまいましたが、真っピンクではないそうです。
着いた日の夜は、民族音楽を聞いたり、葉っぱの皿でごはんを食べたり牛車に乗ったり、今思えば一番インドらしい生活をしたかもしれません。
葉っぱのお皿というから、ほんとに葉っぱそのものなのかと思ったら、ちゃんとお皿には加工してあって、持ちやすくはなってます。
牛車は意外に早くて、キャーこわいと思ったら急に遅くなったりと、牛さんは気まぐれでした。

翌日は朝8時15分にホテルを出発。象さんが少なくて人が多いので、このくらい早く出ればいいだろうと、まず象のタクシーの所へいきました。
どうやって象さんの背中に上がるのか、興味しんしんでしたが、コンクリートの階段をどんどん上っていって、その階段に象さんが横づけされます。
私のお腹くらいの所に象さんの背中の椅子がきたところで、よっこらしょと二人乗り、象さんは方向転換して、私と背中合わせの椅子に、もう二人乗せます。つまり、背中に横向きに4人乗ったわけ。これで20分くらい坂を上って、アンベール城という所へいきます。
私が生まれて初めて乗った象は、どうも私が乗ったことが気にいらなかったらしく(?)母が乗ろうとしても背中をコンクリートの階段から離すんですって。それで私も降りました。
仕事を逃がした象つかいさんは、とんがったものの付いた棒で、象さんをぶん殴っていたそうです。パオーンと鳴いてたけど、そんなに大きな声でもなかったです。
次に乗った象さんで、お城へ連れていってもらいました。
その乗り心地は激しく揺れるブランコ。
あれ以上乗ったらたぶんようだろうな。
その象に揺られて
いる私たちに、物売りが話しかけてきます。
どうせ通じないだろうと思って「高い、まけろ」と言ったら「じゃあ幾ら、幾ら」とくいさがってきます。
次になにやらビニール袋が手に触れたので、なにかと思ったら、下からTシャツを投げてきたの。
すごい、ナイスピッチング。
これを持っていると後でお金を取りにくるらしいので、急いで下へ投げました。
相手に届こうがどうしようが、とにかく投げた。
象さんを降りて城を見学し、帰りはどうするのかと思ったら、ジープで坂の下へ下りてきました。
すると、さっき象の上にいた私の写真を撮った物売りが待っていた。
写真と同じ顔のやつが通るのを、待っているんですね。
一枚1000円でもしょうがない買おうかと思ったら、ガイドがきたら100ルピーに下がりました。ガイドさんありがとう。
というわけで、象さんのお肌にさわれないまま終わってしまうのかと思ったら、添乗員さんが「鼻にさわってみる?」と言うので、こわかったけどさわってみることにしました。厚いゴワゴワした布、そこにわずかに毛がある。そんな手ざわりでした。

午前に見学したアンベール城は、王様のいわば仕事場、午後にいったシティーパレスというお城に、今も王様は住んでいるそうです。その住んでいる部屋そのものにはいけるはずがありませんが、同じ建物にいるんだなあと思うと、なんかちょっぴりワクワクしました。

サラサのお店にいった時には、パンジャビを作りました。
前に読んだだれかの旅行記で、インドでパンジャビを作ったら、着心地がよくて20年も脱げなくなったという文があったんです。
どんなものかさわってみてから決めようと思い、いいなあというきじはあったんですが、13000円からなかなか値段が下がりません。
ベトナムでは8000円で作ったので、どうもその気になれません。
そうこうして
いるうちに、うちのツアーの若い女性が、12000円のを1万円にまけてもらっているのを目撃、いや耳撃か? 私もまけてーともう一度ごねて、ようやく望みのきじが1万円になりました。それでももとはとれてるんでしょうねえ。
アオザイで一度、サイズが合わなくて作り直してもらったので、今回はよーく計ってねと、いろんな部分(笑)を計ってもらい、今晩にはホテルに届くようお願いして帰ってきました。
夜遅く届いたパンジャビは、確かに私の望む、パジャマのようなスーツになっていました。

インドの食べ物 

正直言って「美味しいなあ、また食べたいなあ」と強く思うものはありませんでした。
でも心配したほど、食べられないわけでもありませんでした。
確かに最初の三日くらいは、持っていったふりかけをあのパラパラの外米の上にかけて食べてはいましたが、そのうちバイキングが多くなり、私はこれにどれだけ助けられたか分かりません。辛いものを避けて食べられましたから。
カレーもちょっとはなめてみましたが、日本のように水っぽくありません。ペースト上というか、固まってます。
ヒンデュー教は牛肉を食べないそうだけれども、牛以外のいろんなカレーがありました。
日本でも最近よく食べられているナンとチャパティー、とうとう違いが分かりませんでした。チャパティーの方がナンより、消化がいいそうだけれども、食べた感じは変わりません。

ちょっと変わったものとしては、マサラティーとチュチがゆを紹介します。
マサラティーはネパールにもあるそうだけれども、しょうが入りの紅茶。
いやだ、こんなにおいのきついものは飲めないよーと思ったけれど、砂糖を多目に入れて甘くすると、なかなか美味しい。2月の北インド(私たちは北インドを回りました)はなかなか寒かったので、このマサラティーで身体が暖まりました。
チュチがゆは、おしゃか様がこれを食べて元気を出したというもの。
山羊の乳で作ったもので、甘いけれどかなり癖のある味。
私にはとても美味しいとは思えませんでした。

結局、日本へ帰る直前に食べた中華料理が一番美味しかったかもしれません。
しばらく食べていなかったお肉があったり餃子が熱かったり。
でも辛くないものなら美味しくなかろうがなんだろうが、旅に体力は必要だってんでなんでも食べたら、ちょっと太ってしまいました。涙。

インドへの旅アグラ編 

ジャイプールからまたまたバスで5時間、アグラへやってきました。
ここの代表的観光地は、タージマハールです。
タージマハールってなんなのか分からなかったけれど、お城みたいな実はお墓。
靴を脱いで、スリッパをはいて大理石の床を歩くのはかなりこわく、あんまり楽しい見学地ではありません。
帰りに馬車に乗ったのですが、馬車の外から物売りがまた声をかけてきます。
今度は私も、お客になることにしました。
今いってきたタージマハールが、リカちゃんハウスみたいに広がるようになって売られてるんです。
畳んだら、10センチ四方のりっぽうたい。
これなら部屋においてさわるのにちょうどいいなと、買うことにしました。
次はタージマハールのTシャツを勧められて、わたしゃ恥ずかしいけどXLしか着られないので(ほんとに女か>私)XL XLと言ってみたら、ほんとにXLを出してくるので、買うことにしました。
さっきのタージマハールもTシャツも、どちらも100ルピーでした。

翌日はアグラ城へいきました。
ここは王様が、息子から幽閉された所。
けれど幽閉といっても、このお城全体に閉じこめられたらしいので、かなり広い所で暮らしていた様子。
お金をあまりに使い過ぎるので、息子から幽閉されたそうです。

インドの飛行機

成田からデリーは、いきが10時間帰りが7時間でした。
いきは向かい風、帰りは追い風なんですね。
日航だったせいか和食が美味しかったとか、飛行機の中ではほとんど落語を聞いていたとか、そんなことより、もっとびっくりしたことがあるんです。
アグラからベナレスへいく飛行機で、飛び上がるやいなやサンドイッチとケーキと飲み物が出てきました。
そうか、昼ごはんの時間だからなと食べ終わる頃、経由地であるカジュラとかいう所に着きました。
まだ降りちゃいけませんと言われていたので、座ってましたが、そのカジュラを飛び発ったら、なんとまた食事が。野菜カレーみたいなものでしたが、国内線でしかも2回、食事が出るなんて非常にびっくりしました。
それからテロの関係で、飛行機、特に国内線のセキュリティチェックがものすごく厳しくなっています。刃物を持っちゃいけないのは知ってましたが、他に電池類、マッチやライターも、手荷物にしてはいけません。
私もMDとラジオをあらかじめスーツケースに入れました。
それなのにつかまった私のリュック。
何がひっかかったんだろう?
朝食のバイキングでいただいてきちゃったバナナや、下着にサニタリー用品、そういうものが全部出されて、ちょっと恥ずかしかった。
結局なにがひっかかったか分からないまま、私のリュックは釈放(^_^)されたのでした。

インドへの旅ベナレス編

ベナレスの写真が実はほとんどありません。
ホテルの前で母が撮ったくらいかな?
アグラからベナレスに着いたくらいから、または飛行機くらいから、母がいやなせきをしているなあと思ってはいたのですが、翌朝、起きられなくなりました。
お腹と風邪です。
私もちょっとそうだったんだけれども、母の方がはるかに症状がきつく、まあ詳しくは書けませんが、お食事中の方は読まないでねっていう症状でした。
それで、私だけみんなにくっついて、ガンジス川へいくことにしました。
ガンジス川に陽が上ろうと沈もうと私の知ったこっちゃない、朝5時起きなんてパンフには書いてなかったよー、と、ちっとも乗り気ではなかったけれど、行ってみるといいものですねえ。
早朝とは思えないくらいたくさんの人と力車と車。
船に乗ったら寒くて寒くて、コートをしっかり着ていましたが、少ーしずつ暖かくなってきて、明るさが分からない私は、みんなよりずっと遅れて日の出を感じたのでした。

ベナレスの人口は、分かりません。
ここへ死ににきている人がいるから。ヒンデュー教の人は、このベナレスで死ねるのが何よりの幸せなので、病気などでもう助からないと言われた人は、ベナレスに住んでおくんだそうです。
遺体は火葬してはいにしてから川に流すのですが、生まれたばかりの赤ちゃんが亡くなった場合は、
5才の時にやる儀式をやっていないので、そのまま流すそうです。
女性は火のついたろうそくを川に流して、願い事を祈るんだというけれども、どうしよ、火のついたろうそくを持つのなんてこわいなあと考えていたら、だれかがもう私のを買ってくれて持たせてくれました。
葉っぱのお皿に入っていたので、それほどこわくありませんでした。
船からぐっと手を伸ばして、川にろうそくを浮かべた時に水にちょっとさわったら、意外にも冷たくはなかった。外気があんなに寒いので、ちょっと意外でした。
帰りは力車で帰ったんだけど、来る時こんなに歩いたっけ? というくらい長く乗りました。
三輪車の前が運転手、後ろに二人、椅子に座ります。
ベトナムでこれに乗りたくて、絶対にだめと言われたので、今回インドへきたのはこの力車に乗るのも目的でした。
早朝や夕方は寒いけれど、とってもいい気持ちです。

午後はベナレスの隣り町、サルナートへいきました。
新潟県の白根市という所に実はサルナートという仏壇屋さんがあります。
そのサルナートへ古今亭寿輔さんの落語を聞きにいって、大の寿輔ぎらいになったので、ちょっと思い出深い名前。
まさかインドに同名の地名があろうとは。
ここはおしゃかさまが、初めておせっきょうをした場所だそうです。
おしゃかさまが生まれたのはネパールの、なんとかという所。
初めてさとりを開いたのがブッダガヤという所、おせっきょうをしたサルナート、そしてねはんに入ったクシナガラという所、この四つを回ると、おしゃかさまの教えを守ることになるんだそうです。
サルナートでは博物館にいき、いろんな仏様をさわって、最後は野原にみんなで座って雑談をして、じゅず屋さんにも寄って帰ってきました。

ベナレスのホテル、たまたま私たちグループの部屋がみな1階なのだと思ったら、なんと平屋のホテルでした。平屋で広いの。
母が元気になった後に歩き回ったら、中庭にプールもあって、いいなあ水着も持ってきたんだよなあとも思ったんだけど、そこは中庭。つまり屋外なので、朝は寒くて入れませんでした。