2018/10/17 & 30 日出を歩く(2/3)

10/17
ソラージュへ
11/1
二階堂美術館
10/30
城下町を歩く
 


10月30日(火)

2週間ぶりの日出散策。前回は右ヒジを見たので今回は左ヒジを見る(笑)。
日出よりもひとつ手前(別府寄り)の暘谷(ようこく)駅で下車。

2年前に駅舎が新しくなったらしい。
実はここには2004年のオンパクのときに来ているのだが、道理で面影がないわけだ。

駅前の味楽亭に入ってみる。

麻婆ラーメン。麺がおいら好みの固ゆでの細麺で、とんこつベースのスープも臭みがなくておいしかった。次回はノボリが立ってた担々麺も食べてみたい。

自由通路を渡って駅の南側へ。こちらの方が観光エリアなのに何もない(-_-;)。

久しぶりに日出城址(4)を見て、若宮八幡神社(2)まで行って、日出駅から帰ろうとおおざっぱに計画。

しぶすぎる本屋。

またも記憶にないものが現れた。
2013年にこの場所に復元された隅櫓(鬼門櫓)である。
もともと日出城の本丸東北隅にあったが、明治の廃城令で天守閣や櫓が次々と取り壊される中、鬼門櫓は個人が買い取って民家に移築。その後長らく荒廃していたが、2008年に日出町に寄贈され、5年の歳月をかけて解体、修理、そして復元されたらしい。

内部(2階)の天井のようす。
日出城は1601〜02年にかけて築城され、鬼門櫓も同時期に建てられたと推定されるが、骨組みとなる材木はほぼ当時のものをそのまま使って復元されている。

窓の格子が45度回転して付けられているのがおわかりだろうか。外がよく見え、広範囲に弓を射ることができる実戦的な建築様式である。

鬼門の方位にあたる東北の隅はこのようになっていて・・・

外から見るとこのように角が切り取られたような形になっている。

鬼門櫓の周辺のようす。江戸時代から空堀だったらしい。

日出藩校「致道館」にも立ち寄ってみる。

ここも4年がかりの修復工事が去年終わったばかりだそうで、たしかにきれいになっている。

城下公園へ行く前に、もう一度日出藩木下家墓所を見に行きたくなって、線路の北側に逆戻り。

松屋寺、ここも14年ぶり。

松屋寺のソテツは、日出藩二代藩主の木下俊治が府内城(大分市)にあったものを移植したと言われている。府内藩は日出藩とは対照的に藩主がコロコロと代わり、その都度いろいろなものが無くなっていたようだ(笑)。

イベントがあるらしい。

木下家墓所(大名墓)に到着。

日出の初代藩主は木下延俊。
祖父の道松は杉原家の婿養子で、娘のねねが豊臣秀吉の正室となり、その兄の家定が木下藤吉郎の木下姓を名乗ることを許されたという。
延俊は家定の三男で、子がいなかったねねがもっともかわいがった甥っ子だったらしい。
つまり木下家は豊臣一族でありながら江戸時代になってもつぶされることなく、徳川家をしのぐ16代にわたって存続した奇跡の大名なのだ。
その大きな要因は、延俊の正室の加賀が細川幽斎の娘だったことだろう。
延俊は義兄にあたる細川忠興の助言により関ヶ原の戦い(1600年)で東軍に加わり、豊後国・日出3万石に封じられた際にも忠興から家康への口利きが大きかったらしい。

延俊は1601年に日出藩に入るとすぐに幕府の許可を得て築城に着手し、わずか1年で日出城を完成させた。その設計も細川忠興によるもので、自ら現場監督を務めたという。
あの45度傾いた格子も、百戦錬磨の忠興の仕事だったのだろう。

家定の墓

延俊の墓

2m近い墓が16代全て並ぶようすは圧巻。

城址に戻ってくる。

帆足万里(ほあしばんり)の像。
1832年に日出藩家老となり、藩財政の再建に努めた。
若い頃から独学で西欧レベルの学識を身に付け、三浦梅園、広瀬淡窓と共に「豊後の三賢」と称されている。
松屋寺には帆足万里の墓もあるのだが、見なかった(-_-;)。

こちらは有名、瀧廉太郎の像(朝倉文夫作)。
彼自身は東京生まれなのだが父親が日出出身で、先祖は日出藩の上級武士という家柄だった。

日出城は別名「暘谷城」と呼ばれ、豊後日出藩の三代目藩主・木下俊長が、紀元前の漢の思想書『淮南子(えなんじ)』の一節「日は暘谷より出でて咸池(かんち)に浴す」から取ったと言われている。

聖徳太子の「日出ずる処の天子」にも見られるように、大陸からの視点では「日出=日本」である。これは太子自身が大陸出身者だった可能性も示唆しているわけだが、今回はその話はおいといて・・・
さらに「日は暘谷より出でて」とあるから、古代中国人は太陽は海から昇るのではなく、大陸の東の海に浮かぶ険しい山がいっぱいある島のブクブク温泉が湧く谷間から昇ると考えていたのではないか。つまり暘谷は日出よりもさらに具体的に日本列島そのものを意味しているのではないか。

日出町に残る大神(おおが=太陽神)、真那井(まない=神水の湧く井戸)という地名も、日出の地に古代王権(邪馬台国)の支配が及んでいたことを想像させる。
藩主となった俊長も、今は徳川の支配下にあるが、日出がかつては列島を代表する王国だったことを強く意識し、「日本城」を意味する「暘谷城」と名付けたのかもしれない。

日出に来ることを「来日」と言うのだな〜(笑)

城下カレイで有名な「的山荘」に行ってみる。庭園に入るのは無料らしいので。

日出城三ノ丸跡に的山荘が建てられたのは大正4年。杵築にあった金山の採掘に成功した成清博愛(なりきよひろえ)氏の別邸だった。「的山」は「鉱山を当てる」という意味である。
博愛の孫によって料亭になったのは昭和39年。日出城の下、海底に真水が湧き出る場所に生息する城下カレイの名が全国に広まった。
しかし成清家による営業は2011年までで、現在は(株)まるひでが指定管理者であるらしい・・・

さすが国の重要文化財。敷居が高そう(-_-;)

庭園へ・・・

けっこうな広さ。そしておいら以外、誰もいない(笑)。

次なる目的地、若宮八幡神社の鳥居が見えてきた。

道路を挟んで若宮八幡神社の反対側(海側)にある金毘羅社。大物主神を祭神とする海の守護神。

電車の都合で若宮八幡神社ではあまりゆっくりできなかった。
まだ見ていない二階堂美術館も含め、近いうちに3度目の日出散策を計画せざるをえまい。