2006/1/15 北池袋を歩く

おいらが生まれてから7歳まで住んでいた街、北池袋を歩いてみた。
十年ぶりぐらいかな~。

毎日乗っている埼京線の板橋駅で途中下車し、5分ぐらい歩いて、東武東上線の下板橋駅の踏み切りを過ぎたあたりがおいらの故郷である。

あいかわらずのゴーストタウンぶりに胸が痛む。
お化け屋敷のような古アパート、何年(何十年?)か前までは買物客で賑わっていたであろう市場などが廃虚と化し、そのまま放置されている。

平成になってから、出稼ぎの外国人や、日本語学校で学ぶ中国人留学生が多く住む地域になっているが、考えてみれば、昭和30年頃に四国から出てきたおいらの両親も似たようなものだ。昔からそういう街だったわけである。

「池袋村」の歴史は古く、室町時代の文書に登場するばかりか、おいらの産土神である池袋の氷川神社の境内からは、なんと縄文土器の破片や土偶、貝塚まで出土しているという。集落そのものは数千年前からこの地に存在していたのである。

ちなみに氷川神社の本社は、これも不思議な縁と言おうか、現在おいらが住んでいるさいたま市(旧大宮市)にある。
いつの時代のことかはわからないが、おそらく氷川神社が関東全域にチェーン展開した際、池袋村の鎮守の神様もその傘下に入ったのだろう。

大宮の氷川神社は立派な木造建築だが、池袋の氷川様の拝殿は鉄筋コンクリート製(写真上)。
昭和40年とあるから、まだおいらが住んでいたときに建て替えられたはずだが全く覚えていない。通学路ではなかったからな~。
わずか二十メートルほどの参道に、わたあめや金魚すくいの店がビッシリと並んでいたお祭りのときのようすだけはおぼろげに覚えているが。

せっかく来たので、「日経新春杯でアドマイヤフジが勝ちますように」とお祈りした(笑)。

フジと言えば、この神社に富士塚があるのを初めて知った。
もしかしたら完全に忘れていただけなのかもしれないが、おいらは昔から非常に不活発な子どもだったので、おそらく登ってはいないと思う(笑)。
今は「史跡」扱いで、登ってはいけないらしい。

北池袋駅の駅裏にちょっとした飲み屋街のような路地があり、「ま志ま」という小さな和菓子屋が開いていたので立ち寄ってみた。
鹿児島出身の71歳のご主人が、銀座で修業したあとここに店を構え、夫婦で50年やってる店だという。まるで「池袋の白石保栄堂」だ。
おいらは47年前に生まれたので、それ以後7年間、こちらのご夫婦と同じ町内の空気を吸っていたことになる。
しかし、あいにく昭和30年代の子どもは駄菓子屋専門だったので、ここのお店の記憶はない。(もっとも、現代の子どももお菓子はコンビニで買うだろうが。)
もしかしたら、母はここの和菓子を買っておいらに食べさせた記憶があるかもしれないので、こんど聞いてみたいと思う。

若いときに鹿児島から36時間かけて上京したきりであるというご主人、九州のことはほとんど何も知らないという。
言われてみればおいらも、7歳から20歳まで徳島で過ごしたとは言え、徳島のきわめて限られたエリア以外、四国のことは何も知らない。

和菓子を数個と、定番のアンコと醤油のおだんごを購入。
おだんごはその場でいただく。柔らかくてとてもうまい。

北池袋から池袋までの線路沿いを歩いてみた。
子どもの頃、一度だけ兄貴と一緒に歩いた記憶があるが、死ぬほど遠く感じられたものだ。

JR東日本池袋運転区のおびただしい本数の線路の上を東西にまたぐ、長さ100メートル近くありそうなコンクリートの陸橋は、階段がすっかり苔むしている。
その陸橋の上から眺める景色は、サンシャインや豊島区の清掃所の巨大な煙突を除けば、おいらの原風景そのものである。あえて写真は撮らなかった。
地方都市よりも、かえって東京の下町の方が、古いものがたくさん残っているようだ。

池袋西口に到着。
駅の真ん前の「のとや」のビルが、1Fのマクドナルド以外は営業している気配がない。
池袋ほど、東口と西口で、山手線の内側と外側をそのまま体現した駅はないのではないか。

東武11階の中村屋オリーブハウスで食事。

10階催事場は「食の大北海道展」で大混雑だった。
新宿の京王は恒例の駅弁大会を開催中で、そちらも満員だろうから、いかに東京は人が多いかを物語っている。

うちに帰ってビデオを見たら、アドマイヤフジが本当に勝っていた。
あとで考えたら「2着になりますように」とお祈りしたほうが3連単の配当ははるかに高かったのだが(笑)、せっかく願い事をかなえてくれたのだから文句を言ってはバチが当たる。

「ま志ま」の栗蒸しようかん、道明寺、うぐいす餅はいずれも懐かしい昭和の和菓子の味であった。