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亀川温泉

ラッキーおの:
みらい信金の「別府—温泉読本」56、57ページに大きく掲載されている絵葉書と同一。(こっちのほうは、写真説明に豊後亀川温泉場海岸の砂湯とちゃんと書いてある。豊後という表現は明治終わりから大正時代なんだ、とコレクターから聞いているが、大正時代ではないかと思う。というのは、同じ写真が大正11年の案内書に掲載されているから。)
人物たちのうしろに見える石積みは、昔の亀川港(現在の亀川東町)の突堤になるのかなあ?
遠くにちょっとした森が見えるのは、今10号線ぞいにある市姫神社の森です。

ラッキーおの:
右端は鉄道の線路。
左側の道路は現在も浜田温泉前を走っている旧国道だが、ずいぶん狭くてカーブもあるのが時代を感じさせる。
右奥の白く見える広い土地は亀川小学校(当時は御越尋常高等小学校かな?現在は亀川小は別の場所に移転している)の運動場。
運動場の中には竃門八幡の御旅所があった。
ここに大きな松が3本あったので、「3本松」という地名があった。
藤井石油はこの松の木あたりになるのかな?
今のように亀川駅前をとおる道路はまだない。

ラッキーおの:
1枚目とほぼ似たような場所を撮ってますね。
右側は鉄道の線路、中央に見えるのが浜田温泉前を走っている旧国道。
そして画面真ん中の森みたいに見えるのが、旧亀川小の校地とその裏にあった竃門八幡の御旅所。
旧亀川小の2階建て校舎(大正9年12月落成)がまったく影も形も見えないようだし、かなたの埋め立て地もまったくできていないようだし?

2枚とも大正時代と思います。
1枚目は旧亀川小(当時は御越尋常高等小学校、現在の浜田児童公園とかとなりのJA亀川支店とか、そのあたりが学校だった)の北側校舎(大正9年12月落成)がはっきり写っているし、校舎のずっとうしろに埋め立て地が完成して(大正13年4月)まもないような感じ。
2枚目はその北側校舎がまったく影も形もないし、むこうの埋め立て地はまだなくて、長い突堤が見える。ともかく大正9年以前の写真。亀川駅(明治44年7月開業)の線路もなんだか真新しく見えるようなのは気のせいかな。
大正初期ってことなのかな?
ちなみに埋め立て地は現在は亀川東町になっている。
どちらの絵葉書も珍しいと思います。

ス山:
旧亀川小って、日豊線線路よりも海側にあったのですか?
僕が通った亀川小もかなり古くて真っ黒でしたが、別の場所に建てかえられたものだったのでしょうか。
築40年なんてものじゃなかったように思いますが。
線路よりも山側にありました。(今のところ)

ラッキーおの:
亀川小が現在地に移転したのは昭和13年7月です。

ス山:
そうだったんですか。

ラッキーおの:
それまでは現在の浜田児童公園やとなりのJA亀川支店あたりにあったわけです。
学校のうらには竃門八幡の御旅所があって、ここでお祭りをしていました。
鉄道の線路も学校うらっていうことになりますね。亀川駅前を通過する道路(現在は県道)は昔はなくて、昭和17年ごろにやっと完成しているわけですが、学校敷地を通過しています。
想像するに、学校移転の理由はいろいろあるんでしょうが、駅前道路を作るためにはじゃまになるっていうことも一つの理由でしょうね。

藤井:
藤井@亀川小学校、北部中学、鶴見丘高校です。
としちんの絵葉書のご紹介にあるように、現在地とちがって、いまのJA亀川駅前支店の駐輪場から、浜田児童公園あたりに、亀川小学校はあったようなのです。
現在地の亀川小学校もそうとう古いですよね。講堂を壊して体育館が新しくできるとき、古い講堂のステージの奥にもうひとつ奥まった部分があって、そこには菊のご紋章と、ご真影を掲示してあった、という壁があるのを見て、なんだか歴史に思いをはせ、おごそかな気分になったことを覚えています。
そういえば、いまJA亀川駅前支店正面のマンションになっているところは、大分交通さんの修理工場で、先日、木造浜田温泉館と大分交通さんとの関係を写真家の藤田洋三さんが語っておられたことをいまふと思い出しました。
時代を見つめ、語るなにか象徴的なものを見ると、背筋がピンと張るような気分になります。

ラッキーおの:
ス山さんは亀小卒なんですか?

ス山:
(藤井)慎吾さんと同じく、亀川幼稚園、亀川小学校、北部中学、鶴見丘高校です。
家は遠く離れて昭波園で、電車通学してました。

土田:
亀川小学校か〜 なつかしいですね。 僕は小学校3年まで通いました。
一年生は確か保健室の隣の6組だったか?
北校舎の一階西側突き当たりが講堂⇒保健室⇒1の6⇒下足ホールをジョイントにして南北方向と変わり北と南に大きな階段室が配置されていて、2年生は二階の南から2番目の2の2だった記憶があります。
便所は最北の外部だったかな?(当時何かの事件?があったような記憶があります。)

藤井:
朝、登校してみると冬でもないのに、あたり一面まるで、雪が降り積もったように真っ白になっていました。
近づいてみるとそれは虫の大群が発生したことによるもので、それはウジ虫だとはじめて知りました。
この事件のことかしらん?。
便所といえば、午前終わり近くに「あっ、きょうの給食はカレーや!。」と叫んだら、女の先生にたしなめられて
(なあんだ、トイレの臭いがただよってきただけなんかあ)としょげた記憶があります。

土田:
今プールになっている横に校庭のバリア的古い長屋があり真中がトンネルみたく通路になっていました。
当時はこのL型木造2階建て校舎の北と東側は一面レンコン畑(落ちたら底なしで死にそうな感じの・・)亀川駅もストレートに見えていました。カエルの鳴き声がすごかったですね。
先生や用務員のおじちゃんにこわ〜い話しをよく聞かされていました 特に東門の柳の下あたりは鬼門でしたね〜今でも思い出すとこわいですね〜おそろしいですね〜 
一年生のときテストを机のなかに突っ込んで隠していたのをチクられて、日曜の夕暮れ、時に一人で自転車に乗りこの校舎に取りに行ったときの恐怖は計り知れないもんがありましたね〜
校舎を飛び出て50mはダッシュしたなぁ〜^^;
しっかし、よくもまあ憶えてるもんだな〜 

PS:亀小時代はとにかく悪ガキだったです。本が書けるくらい・・・エピドード6分くらいのネタはあります(笑)
しかし浜田温泉のエリアにはまったくいかなかったですね。遊びのテリトリーは新川までだったです。

藤井:
そのネタ、今度お聞かせください。