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鶴見園

菅@東京
鶴見園の説明のところで、「歌劇」もありとありますが、これを描いた絵はがきはないのでしょうか?

留実ちん
私もほしいのですが、あいにくまだ手元にありません。
しかし…。しかしですね。 お兄さまがお持ちの「みらい信金さん」の記念誌には載っておりますので、帰省された時にでもみせてもらってください。

菅@別府
続々とコレクション公開ありがとうございます。
「石垣村」とあったので開けてみましたよーーー
荘園にある「温研」の出来た当時はハイカラですねーー
石垣の「吉弘神社」の姿はつい3年前ぐらいまではこの建物でした。
現在は新築されました。
ここは祭神である大友義統の家臣吉弘統幸の首塚があった・・・と聞いていますが定かではありません。
城島高原奥の「猪瀬戸」も石垣村でしたね。このころは湿原地帯で九州の「尾瀬」といわれていた時代でしょうね。
当時の石垣村は「南・北石垣」「堀田」「志高湖」「東山」「枝郷」を全て含んでいたようですから面積的には「別府町」よりもはるか大きな自治体だったようです。
「鉄輪地獄」の写真ですがこれが現在の「陽光荘」だったのかな?

佐藤 眞幹
大友義統はキリシタン大名「大友宋麟」の子です。
吉弘神社「祭神」の「吉弘統幸」とは、戸籍上では「吉弘嘉兵衛統運」の事である。
大分県国東半島武蔵町(現)の旧吉広村は、南北朝時代、吉弘一族の本貫地であった。菩提寺の永泰寺が廃寺となり「長安寺」。
「嘉兵衛様」という呼び名と「統運(これを ノブユキと読む)」という本名を知らなければ、これに関する史跡等の確認が出来ないことを安部巌先生は昔語っていた。
「嘉兵衛」の切腹に介錯したる「室裡清衛門」の墓が神社の敷地裏手にあり、江戸から大正期の間「神社設立」までの長きに渡り、これが朝日村(鉄輪)から別府村への道しるべとなっていたということです。

一国を支配する徳川幕府という、大政権設立に至る直前の最後の抵抗者という者は悲しいものである。
一族は遠くに飛散したからか、平成の神社新築時は高額寄進者の名も知らぬ方が多い、施工業者も知らぬところだったような。
地元で世話する神社の工事は地元でやって欲しい。
どこかの山の中に出来たスポーツセンターも大手だったと思うがーー。
あっ、いらぬ事をーー。
なのに何故か、吉弘神社は、最近は朝の5時から参拝者があるようです。
また、ややこしい系図と戦略的婚姻の歴史記述をたどれば、なんと「吉弘嘉兵衛統運」の祖母は「大友宗麟」の実姉である。

> 城島高原奥の「猪瀬戸」も石垣村でしたね。
> このころは湿原地帯で九州の「尾瀬」といわれていた時代でしょうね。

そうですね、変わってしまいました。
昭和50年代までは、丈の高い草の間で、水芭蕉や、ここしか無いという貴重な植物が多くありました。
荒らすのが怖くて小生は写真を撮りに入るのも控えていたのですが。
今はもうカラカラの状態で残念ですね。