遠かったブエノスアイレス(最終編)

 
そういうわけで、3月22日は、なんの予定もないので、朝7時半までぐっすり寝て、朝ごはんを食べにいきました。
ブエノスアイレス最後の朝ごはん、になるのかどうか、分かったもんじゃないけれど、味の付いたパンやパンケーキを食べました。
その後、ホテルの向かいにある、中国人が経営するというスーパーで、私の好きなヨーグルトとファンタを買いました。
余っているペソを出して、足りなくて1ドル出しても足りなくて、もう1ドル出したら、おつりがきました。
今アルゼンチンは、レートのいい所では4ペソで1ドル、ちょっと悪い所にいくと、3.9ペソで1ドルになるようです。ちなみに、地下鉄は1.10ペソ。安い!
このスーパーのレジの女の子の計算が、あまりに遅いので、母が日本語で「計算できないの?」と言ったら、何を感違いしたか、フフッと笑っていました。
店員さん同士の私語は、確かに中国語でした。

それからお風呂に入り、昼寝ならぬ午前寝をして、1時頃お昼を食べにいくことにしました。
夕べも今朝もこのホテルで食べて、別に不満はないけれど、3回同じ所で食べるのはいやだ。
昨日のガイドの話では、すぐ近くにレストランがあると言っていたし、母をつっついて、そこへいってみることにしました。
ところがフロントで尋くと、ここから200メートル行って、次に右に曲がって、という説明です。そんなに遠かったっけ?まあいいや、そこへいってみよう。

レストランに着くと、入口の外には牛、内側には馬の造り物がおいてあります。だからほんとうは、お肉料理の店かもしれないのですが、私はどうも、昨日の牛肉があまり美味しくなかったので、フィッシュが食べたい、フィッシュだフィッシュだと繰り返してみました。魚ならばサーモンとなんとかがある、という、そのなんとかは聞きとれなかったので、サーモンを注文しました。パンはいつも、お店のテーブルに出ているので、注文しなくていいんです。パンの他に、イタリア料理に出てくる、プリッツ上のものがある時もあるし、クラッカーがテーブルに出ていることもあります。
待つこと...20分くらい。果たして注文はとおっているのかしらと思った頃、アツアツに焼けた鮭と、レモンとじゃが芋が出てきました。鮭の皮は、お店の人がむいてくれます。鮭の皮なんて美味しいのに、むかないでよと思ったら、私の知っている、そんな皮じゃなくて、ものすごく堅そうな皮なんだそうです。なになには要るか?と、ウエイターが尋いているようだけれど、どうしても分からない。えーいめんどくさい、持ってきてかけてやれと思ったのかどうか、ウエーターがオリーブオイルを持ってきて、じゃが芋にかけました。ああ、それを尋いていたのかあ。塩だけのじゃが芋でも別によかったけれど、これはこれで美味しかったです。
この鮭とじゃが芋の、美味しかったこと!分量が分からなかったので、始めは一皿しかとりませんでしたが、もう一皿とって母も食べました。
お会計は二人で、なんと75ドル、コーヒーもスープもとったけれど、ずいぶん高い食事になりました。だけれどこれが、ブエノスアイレスで一番美味しい食事でした。
後で旅行社の人に、鮭が美味しかったと話したら
「ここの鮭は全部チリ産なんですよ」
どこ出身でもいいわよ、美味しければ(汗)。

7時に車がきて、また空港へ。
今回は昨日より更に時間がかかり(ラッシュですから)8時過ぎに空港に着きました。
空港で康子さんが待っていて、いろいろ手続きをしてくれました。
実は昨夜の空港トラブルは、いきの飛行機トラブルと違って、宿泊代も、空港への送迎代もガイド代も、自費で払っているんです。ですが海外旅行の障害保険に加入しているから、なんとか保険を申請すべく、空港で
「確かに昨夜、飛行機は飛びませんでした」
という、英語の証明書を書いてもらう必要があったんです。
書類を書いてもらっただけでは、パソコンのコピーみたいだから、判も押してもらいました。
その手続きと、搭乗手続き、両方してもらって、あとは特にやることもないし、ゲートへいくことにしました。
この時、空港職員の女の人が、私と母のことを、変わっている、変わっていると言うんだそうです。どうして?と尋いたら、昨夜の空港の閉鎖を聞いて、みんなものすごく怒っていた、この二人だけ黙って帰っていったと言うんです。私だって、怒る時は怒るのですが、ただ昨夜は、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ「アルゼンチンにまだ居られてよかったな」と思っちゃったのです。泊まる所もあったし。

康子さんとお別れして、ゲートにいき、その辺に売っているサンドイッチで簡単に夕食を済ませました。なにせお昼をたっぷり食べているから、お腹があまり騒がなかったのです。
そして、夜11時15分発の、ドーハ行きの飛行機に乗りました。
この時、スチュワーデスが
「ニーハオ」
と言いました。
こういう時、私は怒るのよ!
バカにしないでよと、日本語で言ったけれど、もちろん通じませんでした。

こうして日本に帰ってきた訳だけど、ドーハの空港で、最後のアクシデント。母がトイレにいきたい、一人でゆっくりいきたいと言うので、私は待合室で待っていたんです。
アルゼンチンではつながったりつながらなかったり、つながっても重かったりした携帯のアイモードが、ドーハだと近くなったせいか、楽々とつながるので、ミクシーとかいろいろ見たのです。ドーハの空港で乗ったシャトルバスの冷房が、あまりに寒かったので、ドーハの天気をしらべたら、外が31度だってことも分かったし。
気がつくと、母がトイレにいってから、30分は経っています。トイレで具合が悪くなって、倒れていたらどうしよう!すいませーんと言っても、ヘルプミーと言っても、だれも応じてくれません。さっきまでここに居た、関西弁の日本人もいません。もう、飛行機の搭乗が始まっているのです!今度飛行機に乗り遅れたら、もう保険の範疇ではないし、どうしよう!
立ち上がって叫んでも、なおだれも反応してくれないので、リュックから白杖を出してみたら、やっと空港職員らしい男の人が、声をかけてくれました。
「プリーズ コール マイマザー」と、知っている単語をみな並べました。これ以上詳しいことは、私の英語力では説明できないので。すると、搭乗券はだれが持っているのか?と尋いているようだったので、マイマザーと応えました。次に、お母さんの名前は?と尋いているようだったので、名前とスペルを言いました。次にまだ英語で、何か言っているのですが、もう分かりません!だれか日本語通訳してーと叫んでも、またまたみんな無視。それどころか、せせら笑う声も聞えました。

結局うちの母は、トイレの後、全然違うゲートで、私を探し、飛行機を待っていたのだそうです。
「あんたがどっかに動いたんじゃないの?」と母。んなわけないでしょ。声をかけてもみんな無視するような人たちが、私をどこへ動かすんだ!

ぎりぎり成田行きの飛行機に間に合って、そして3月24日、日本に帰ってきました。
ここで分からないのが、経由地で飛行機を降りるのかどうかっていうことです。
今回、ドーハ行きの飛行機は関空経由、その後のブエノスアイレス行きは、サンパウロ経由でした。いきの飛行機では、関空では降りられませんでした。
帰りには、関空で強成的に降ろされ、せっかく持っていた水も取り上げられました。
逆にサンパウロは、いく時はみんな降りると言われ、帰りは降りてはいけませんでした。
降りるの?それとも降りてはだめなの?と尋いても、スチュワーデスも知らないのです。どうなっているんだか。

24日の夜、スカイライナーと新幹線を乗りついで新潟へ帰ってきて、そして25日、そうだ、私の旅行はまだ終わっていなかったんだと思い至り、保険会社へ電話しました。
この際名前を書いておくと、エース保険です。
飛行機が飛ばなかったので、宿泊の一泊分と、ホテルに夕方まで居たかったので、レイトチェックアウトの料金50ドル、そしてこれが一番高かったんだけれど、空港への送迎代とガイド代150ドルを請求したいと言ったのですが。
どうしてガイドが要るんですか?と尋くんです。あの難しい証明書を書いてもらうのに、とても私の母の英語力ではだめなんだと言っても、通じません。それに、保険に必要な書類が、全部で5種類くらい要るんです。母に話したら
「あんた、命があって、どこも怪我しないで帰ってきたんだから、もういいわよ」
と言うのです。確かにあの調子では、私が旅行中に死んでも「ほんとに死んだんですか?」くらいは言いそうだ。だから今のところ、保険の申請手続きはしていません。そして今後、たぶん私は、保険に入らないだろうと思いました。

今回の旅行で使った、携帯の料金は、18,000円くらいでした。これだけ聞くと高いけれども、旅行中に天気予報をしらべられたり、一度だけ国際電話をかけたり、ミクシーで日本のニュースをみたり、楽しむお金としては適当だったように思えました。

旅行中、私の知っている数少ないスペイン語は、みんな通じました。
グッモーニングと言うより、ボエノスティーアースと言ってみると、全然相手の反応が違うんです。ドーハで初めて聞いたアラビア語は、あのー、どっか漏れてませんかという感じの、おもしろい音の響きでした。ロシア語でいうх(ハー)の音が、とても多く聞えたから。

飛行機の中ではほんとに退屈しました。持っていった点字の新聞、注意されたら辞めようと思って聞いていたMD、全部読み終わり、聞き終わりました。離着陸の時でなければ、どうも飛行機の中で、MDレコーダーは使えるんですね。ヘッドホンの放送が全然ないので、持っていってよかったです。
しかしその、退屈しのぎに持っていったものを全部読み終え、聞き終えても、まだまだ着きません。おまけに、成田からドーハまで、ずっと泣き続けている子どもはいるし。何考えてんだ。しかたないから、後ろに座った新婚さんと、黒人の男の人の話を、聞くともなしに聞いていました。その新婚さんは、2月に結婚して、今はドーハ経由でケニアへいくのだとか、黒人の男性は、日本人の奥さんがいるけれど、奥さんは飛行機がきらいで、ナイジェリアにいる自分のお母さんも飛行機がいやなので、二人は一度も会ったことがないのだとか、みんな聞えちゃいました。
それでもなお着かないし、喉はかわくので、バッグの中の飴をなめていました。
カタール航空は、食事の度に、テーブルに紙が敷かれるんです。紙というか、プラスチックを紙上に薄くしたやつ。とてもおもしろい手ざわりだし、他の航空会社でみたことがありません。たぶん、食事のおぼんの滑り止めです。
そのテーブルクロスを、1枚だけもらいたくて「アイ ウォンテュ ジスペーパー」と言ってみたら、すぐOKしてくれました。なんで欲しいの?と尋いているようだったので「フォー メモリアル」と言いました。中1の英語でも、なんとか通じるものですね。

アクシデントばかりの今回の旅行でしたが、アルゼンチンは予想以上にいい所でした。
もうちょっと治安がいいと、更にいいんだけれど、暗くなってから、特に日本人は、外へ出てはいけないそうです。康子さんは、身ぐるみはがれたことがあるそうです。だからわざと、車をぼろっぼろにしておくのだそうです。
うちの母に言ったら怒るけれど、またいつか、南米へいくのもいいなあと思いました(完)ミルク。