テニーが家にやってきた

 
まだ放送も終わってないし、どの程度書いていいかも分からないんだけど、なにか書きたいなあと思って、そっとみなさんに(笑)書かせていただきますね。

あれは忘れもしない、昨年の12月の、何日だったかな(汗)とにかく夕食を食べていたら、私が卒業した盲学校から電話があったのです。
卒業していくせいそう(汗)なんの用だろうと思って、母から渡された受話器を受けとりました。
そうしたら、テニー(テレビ新潟のこと)の人が、20年前、私が成人式で歌ったという新聞記事をみた、その私が今どうしているかを取材したい、と言っている、私の電話番号を先方に教えていいか、ということでした。
20年前?成人式で歌った憶えならあるけれども、テニーに取材された憶えはないんだけど? と私がまだけげんな声を出していたら、新潟日報の記事をみて、テニーの人がくるんだそうで、そんならと、電話番号を教えることを了解しました。
そのまま忘れていたのですが、翌日、テニーのKさんから電話があったのでした。
テレビをみる人には分かるのかもしれないけど、一応、名前はふせておきます。

そのKさんといろいろ話す中で、私の家と、ロシア語の授業と、三味線の稽古の撮影、そして成人式の時に歌った歌を歌うことになりました。

最初にKさんが家へみえた時は、今日はカメラは持っていきません、お話だけ聞きますと言われたけれど、よく知らない人が家へ来るっていうことで、いろいろかたづけて、緊張もして待っていました。約束の時間にこなかったことで、疑ったりもしました。でもそれは単に、道に迷っただけで、お会いして2時間話してみて、普通の人だなと思いました。20年前の私の記事などをみて、取材しようと思ったのなら、まあ普通の人じゃないかもしれないけれど?

そして年が明けた今月、もう1回うちあわせにいらして、次にカメラを持ったKさんが我が家へ来ました。

楽しかったのも大変だったのも、実はここからでした。
お客さんが来るということで、私の部屋は多少かたづけたつもり、ちょっとばかり恥ずかしいぬいぐるみも隠したけれど、テレビカメラにとってはそれでは全然、かたづけ方が足りなかったの。
私にしてみれば「なんでMDの箱もだめなわけ? コーヒーカップくらい、どこの部屋にもあるんじゃないの?」と思ったのですが、そういうものもみんなかたづけさせられました。
母は私の小さい時の写真を探しているし、私もなかなか動かなかったら、テニーのKさんがどんどん一人でかたづけました(笑)

20年前、私が二十歳の時、成人式のアトラクションで歌ったという新聞記事だったので、その記事のとおりの歌を歌えと言われ、ギターで歌いました。
歌詞も忘れたし、ギターも下手になっているけれど、ともあれ「手紙」という歌を歌いました。
今度は顔を撮るから、次は手を撮るからと、同じ曲を4回くらい歌わされました。

次はインタビューです。
マイクはここだからねとさわらせてもらって、質問に答えるのですが、マイクにくっつこうとしてだんだん私の背中が丸くなって、治されました。しまいに「通る声だから、そんなにくっつかなくていい」と言われました。
成人式の思い出や、今夢中になっているロシア語、夢中でもないけど長く通っている三味線、そして旅行のことを話しました。
落語協会のカレンダーや、扇遊さん、桂小春団治さんの色紙も見せようとしたんだけど「ちょっと趣味が多過ぎ」と、これはあっさり割愛。なので、モスクワがいかにいい所かを、熱く語ったつもりです。編集されて、無くなっちゃうかもしれないけど。

次はパソコンでメールを書いてみてと言うので、私がメールしていい相手の中で一番遠くに住んでいる、モスクワの日向寺さんにメールしました。
この時、今取材中だとか絶対書いちゃいけないというので、さりげなく、なおかつ私の言いたいことも伝わるように書きました。
メールだけじゃないのよ、ホームページもみれるのよと説明したかったけれど、なにせKさん、パソコンは全然やらない、携帯でメールを書くだけな人なので、あんまり理解は得られず、メールの読み書きだけお見せしました。

そうこうするうちに、夕方になり、ロシア語の授業にいく時間になりました。
ここでまたおもしろいのが、家にいる時とロシア語の時と三味線の稽古の時、全部違う服を着て欲しいとのこと。着替えてくるからここにいてねと、男性であるテニーのKさんを私の部屋に残し、私は下へ着替えにいきました。

ロシア語は水曜日も金曜日も習っているけれど、金曜日の方を取材されることになりました。
それでよかったかも。水曜日のメンバーは気難しい人がいるから、テレビ局なんて連れていったら、何を言われるか分かりません。
さて金曜日はどうやっていくのと尋かれたので、教室にいく前に夕食を食べていくのよと、母と私とKさんの3人で、ガストに入りました。
今回の取材、ギャラはない代わりにここの食事はテニーが出すから、好きなものを食べてもいいよと言われても、私はこのお店で一番安い、オムライスが大好きなんですもの。せいぜいドリンクバーだけ贅沢させてもらって、いつものオムライス504円なりを食べました。
母と二人だと、話すこともなくモクモクと食べているけれども、Kさんがいるので、3人でいろんな話をしながら食べました。
Kさんが「ストレスにいいから」とカモミールティーを飲んでいたので「今日のこれがストレスですか?」と恐る恐る尋いたり。いやー、視聴率がねえ、お相撲があると辛いんだよねえ、なんて話を聞きました。
私かねがね、テレビの視聴率ってどうやって分かるんだろうと思っていたら、新潟市に何軒、長岡市に何軒と、ほんの何軒かのお家に調査をする機械がついているのであって、私がいくら「テニーをみよう」とチャンネルを合わせても、それは視聴率に反映しないんだそうですね。なるほど、知らなかった。

やがてちょうどいい時間になったので、公民館へいきました。
今日はいろいろご迷惑をかけるので、私が好きな、なおかつ安いお菓子、新潟のボン大橋というお店で売っているマフィンを持っていったら、みんなおせじか、美味しいと言ってくれて、うれしかった。「私が映るなら困る」と言っていたロシア語の先生も、いつもは着ていない、いいセーターを着ていたと母が後で言っていました。テニーからもかきのたねが配られて、充実したオヤツタイム。
おやつを食べに集まったわけじゃありませんから(笑)2時間ロシア語の授業がありました。
Kさんはどうするのかな、途中で「撮りましたから、さようなら」と帰られるのかなとも思ったんですが、ご興味もないであろう授業に、最後までつきあってくれました。
私一人でしゃべる時間を作れというので、先生の指示で教科書を読み、それを録画されたのですが、これが一番緊張しました! だって私に過去にロシア語を教えた先生が、もし偶然テレビをみていて、あいつはうまくなってないなと思われたら、まあ実際そうなのだが、そう思われたらなんか恥ずかしいから。

8時半に授業が終わって、Kさんが家まで送ってくれるというので、ありがたく車に乗って帰りました。
実は「ロシア語の授業にいくところも撮りたい」と言っていたので、当然バスでいくのだと思っていたら、いきも車に乗せてもらえて、家からあの公民館がものすごく近く感じました。いつもバスで、40分から1時間かかって通っていたのに、車は20分でした。

そして取材の最後は、三味線の稽古風景です。
ほんとうはこれも、三味線を持って歩いている所を撮りたいという話だったんですが、あいにくこの日はどしゃ降りの雨。三味線は湿気が大きらいです。なので、持って歩く撮影はやめて、ただ先生の家へ車でいきました。そうして弾いている所と、私の下手な民謡を録られました。
先生と二人で弾いていた時、先生が急に止めるので「どうしたんですか?」と尋いたら「だって撮影いま止めたもん」私は見えないから分からなかったけれど、先生はずっとカメラを気にしていたんです。Kさんは別に稽古を聞きにきたわけでも、三味線に興味があるわけでもないのにと、ちょっとおかしかった。
もっとおかしかったのは、稽古の後コーヒーが出てきたこと。
いつも三味線の先生の家で、コーヒーなんか出たことはありません!
コーヒーとカステラをご馳走になり、先生と奥さんと、もう一人の生徒さんとみんなでくっちゃべりました。

そうして雨の中、先生の家から車で帰ってきて、私の部屋へもう1回いき、今度は動いている私の写真を撮って、小さい時から今までの写真をお貸しして、長い取材は終わりました。
放送は1月20日、テニーの「新潟一番」という番組の中の「あの日あの時」というコーナーらしいです。Kさんには悪いけれど、みんなお相撲をみてくれたらいいと思う。

しかし、とっても疲れたけれどなかなか楽しい取材でした。
取材のあいまにいろいろ個人的なお話を伺っておもしろかったし、家に人が来るっていう、私にとっては珍しい生活に、そろそろ慣れた頃に取材が終わって、正直ちょっと寂しいかなとも思いました。

なんでこんな面倒なこと断わらなかったのと、幾度か母に言われました。けどこういうマスコミの人っていうのは、頼んだって絶対やってきません。来てくれる時に、ありがたく受けようと思いました。ミルク。